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領域、時代と伴い変遷−忍藩飛地の支配拠点


八王子御用所推定地に建つ公民館

八王子御用所推定地に建つ公民館


 1823(文政6)年、桑名藩奥平松平氏は、武蔵国忍(おし)(現埼玉県行田市)への転封を命じられた。それに伴って、支配領地の多くは忍城を中心とした領域に移ったが、員弁郡・朝明郡・三重郡の一部地域3万7千石はそのまま残され、忍藩の飛地となった。さらに、30年には、越後国の村々との交換で伊勢国の忍藩領が7千石増えた。そして、42・43(天保13・14)年の幕府の改革、いわゆる天保改革によって伊勢国の忍藩飛地は幕府領となって、いったん消滅する。再び伊勢国の一部が忍藩領となるのは47(弘化4)年のことで、この時には三重郡八王子村(現四日市市)など7か村が忍藩領となった。その後、54(嘉永7)年には30年時点で忍藩領となっていた村々約70か村が忍藩領となり、それから1871(明治4)年の廃藩置県まで継続する。
  ところで、忍藩領の飛地支配は、大矢知村(現四日市市)に陣屋を構え、そこを拠点としていたということが定説になっているが、実際には、支配拠点は大矢知陣屋だけでなく、時代によってその場所は変わっており、今回は、その変遷を追ってみたい。
  まず、23年9月28日に新領主久松松平氏との間で桑名城の引き渡しを終えた後、10月14日に若林八十兵衛が忍藩飛地の郡代となり、その下に岩見七右衛門・荒木宅兵衛の2人の陣屋勝手の代官が配置された。10月24日には新しい陣屋場所の見分が行われ、11月1日郡代若林が町人大高立元宅から今一色松巌寺跡(現桑名市)への引越をしている。この松巌寺が当分の忍藩の役所となったのである。松巌寺は「久波奈名所図絵」(上巻)よれば、臨済宗妙心寺派の寺院で、最初に桑名へ入封した松平忠雅に追従してきたとあり、奥平松平氏と関係の深い寺院であった。なお、松巌寺が当分役所となる前は、町人宿に諸役所が置かれていたようであるが、忍藩役所そのものがあったのかまでは不明である。
その後、翌24年2月中旬には大矢知村に陣屋の長屋が建てられた。陣屋内の郡代屋敷はまだ建設は行われていないものの、2月29・晦日に郡代や御用人はじめ忍藩役人らが引越を行っている。そして、6月4日には陣屋御殿の棟上げが行われ、25年正月には陣屋での年頭拝礼が行われた。
  47年には、一部の村々が忍藩領となったが、その時点で、大矢知村は幕府領のままであったため、新しい役所が必要であった。その拠点となったのが八王子村の「御用所」である。地元では、これまで御用所の存在は知られておらず、その意味では新発見である。御用所建物の詳細などはよくわからないが、在地代官や大庄屋を務めた地元有力者の屋敷が利用されたのではないかと思われる。現在、そこには公民館が建つ。
54年には、大矢知村を含む多くの村々が忍藩領となったため、再び大矢知村の陣屋が整備されることになった。同年8月9日、陣屋整備にあたっての大工や土取人足の調査が実施され、翌日には御用人によって陣屋場所見分が行われた。陣屋造営にあたっては、川北村(現四日市市)真西寺に普請方役所が置かれ、9月27日には「明日二十八日に陣屋の棟上げ式を行い、酒を振る舞われるので庄屋・年寄などの村役人は残らず来るように」との触も出されている。その後の経過は不明であるものの、11月18日に役人が引越していることや12月13日には別名村(現四日市市)が陣屋造営の祝儀として米2俵を上納した時の受領書が残されているなど、年内には陣屋は完成していたものと思われる。
  このように、忍藩飛地支配拠点は「大矢知陣屋」との定説があるが、実際には藩領域や時代によって役所が異なっている。それは新出史料の解読によるもので、歴史事象の定説となっていることも史料の発見や読み直しにより変化するものである。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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