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町村史に誤解−文化11年の伊能忠敬測量隊


(画像)三重県域北部の主要街道概図

(画像)三重県域北部の主要街道概図


 伊能忠敬(いのうただたか)は、江戸時代後期に全国各地を測量し精巧な絵図を作り上げた人物であって、測量のため三重県域にも何度か足を踏み入れている。少なくとも5回はある。1回目は1805(文化2)年の伊勢・志摩・紀伊国から西国に及ぶ第5次測量のときで、これについては、前の「発見!三重の歴史」第76回でも取り上げた。2回目は、この第5次測量の帰路で、翌06年に近江水口より東海道・伊勢別街道を測っている。第3回目は、四国・大和路測量のため東海道を通過しているが、測量はしていない。4回目はその帰路で、05年12月大和の初瀬より初瀬街道を測量し名張〜市場庄(現松阪市、旧三雲町)を経て山田に至り、年を越したという。
5回目は、第8次測量で、九州測量の帰路に三重県域を測量している。測量隊は、1814年3月10日山城木津(現京都府)方面から伊賀に入り、まず島ヶ原宿本陣で止宿した。今も関係史料が地元に残存しており、既に『島ヶ原村本陣・御茶屋文書』に紹介されている。それは「天文方御証文之写并御先触写控」という史料で、宿泊や賄(まかな)い方などに関する測量隊から指示である。史料の日付は3月2日付けで、京都を出立する2日前、島ヶ原止宿の8日前であった。ちなみに、宿泊については「御定の木銭米代」を支払い、「一汁一菜」でよいとしている。また、天体観測を行うので、10坪ほどの場所を用意するようにとも書かれている。
さらに、この「先触」によれば、忠敬の測量隊は総勢16人で、10人と6人の2隊に分かれて測量を行っていたようであり、島ヶ原宿では10人の宿泊を確保する必要があった。この10人の本隊の経路は、京都から木津・笠置(現京都府)を経て島ヶ原で止宿し、上野へ出てからは佐那具・柘植を通り加太越え(大和街道)をして亀山に達する。そして、伊船(現鈴鹿市)から菰野への巡見街道を通り、菰野から四日市・桑名を通過し美濃に入るコースであった。
一方、6人の別動隊の経路は、京都から木津・北大河原(現京都府)を経て上野に出る。上野からは平松(現伊賀市、旧大山田村)を通り長野峠越えて久居・津という、いわゆる伊賀街道と奈良街道の一部を通って津に出るコースで、その後、白子・四日市を経て菰野・千草(現菰野町)・阿下喜(現いなべ市)の巡見街道を通過して美濃に抜けるという予定であった。
さて、実際に予定どおり進んだのか、測量の経緯を忠敬自身が綴った「忠敬先生日記」(千葉県・伊能忠敬記念館所蔵)で確認してみよう。3月10日に本隊が島ヶ原で止宿したことは前述したが、その翌11日上野で別動隊と合流し、数日間逗留した後、再び二手に分かれた。本隊は加太・亀山・菰野・四日市へ、別動隊は長野峠を越え、久居・津・四日市へと進み、3月20日に四日市で合流し、本陣江戸屋に止宿した。そして、翌21日にまた分かれて出発した。本隊は桑名・多度を経て美濃へ、別動隊は菰野・千草・阿下喜を経て美濃へ進んだ。「先触」に記されたとおりで、当初から二手で測量することを前提にしていたようであり、「我等」という記述などから忠敬自身は本隊に入って行動したことがわかる。
ところが、既に発行された町村史類の中には、別動隊が通過した街道沿いであっても「伊能忠敬が測量のため通過した」というように記述をしているものがいくつか見られる。「忠敬先生日記」などの資料を丁寧に読まず、二手に分けられたことを見過ごした結果であり、地域に誤解を与えている。第5次測量以降は幕府測量となり、大人数となったことで、手分けして測量することもあったことを十分踏まえておかなければならない。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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