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藩と村落の史料合わせ−信楽代官の神戸藩囲米改め


囲米改めの記載がある「日永諸事記」(稲垣藤夫氏所蔵)

囲米改めの記載がある「日永諸事記」(稲垣藤夫氏所蔵)


 江戸時代には藩が領民支配にあたって多くの文書を作成した。また、同時に町や村でも自治組織の運営のために多くの文書が作られた。それらは、現在も古文書として多数残存している。県史編さん過程でも、そうした古文書を調査・収集しているが、一つの歴史事象で藩側の史料と村落の史料がそろっている例はなかなかない。
今回取り上げる事例は、1807(文化4)年に行われた伊勢国の幕領を管轄していた信楽(しがらき)代官の囲(かこい)米(まい)(籾(もみ))改めに関する史料で、神戸藩側と村落側双方の史料が残されている。
囲米とは、江戸時代に幕府や藩が家臣や町人・農民に命じて貯蔵させた米穀のことで、長期の保存のために籾で保存することが多かったことから囲籾ともいった。当初は、幕府の米蔵や譜代大名に城詰米(しろづめまい)として貯蔵させたもので軍事的な意味合いが強かった。しかし、時代が経つに従い飢饉(ききん)対策や米価調整のために利用された。三重県域の藩では、1676(延宝4)年において桑名城に1万石、亀山城に3千石余、鳥羽城に3千石が備蓄されていた。
  神戸藩も1789(寛政元)年、1804(文化元)、05年の幕府の命令に基づき囲籾を貯蔵していた。その囲籾改めを07年に信楽代官多羅尾四郎次郎が行ったのであるが、その時の様子は藩側の史料に記されている。それに従えば、多羅尾代官の改め(見分)は、5月26日付けの信楽代官手代中(てだいちゅう)から神戸藩郡代(ぐんだい)への書状が到着したところから始まる。当初、見分は5月晦日(30日)に予定していたが、雨のために6月1日に延期となった。
当時、囲籾は神戸城と支配村落の郷蔵(ごうぐら)に保管されており、いわゆる城詰米が千俵で、村落保管が875俵であった。ただ、それは1789年9月17日の幕府の命令に基づく備蓄で、それ以外に1804年及び05年の命令によって高岡村(現鈴鹿市)のほか11か村の郷蔵にも50俵〜600俵ずつ合計で2、625俵が保管されていた。これらの村々の見分は翌2日であったが、この中に日永村(現四日市市)も含まれていた。
日永村には囲籾400俵が保管されており、日永村の旧庄屋宅に残された文書には、この見分に関する記述が見られる。まず、1807年5月28日付けで多羅尾代官の囲米改めについて先触(さきぶれ)が出され、神戸藩郡代服部善右衛門が立ち会うこととなった。多羅尾代官は、神戸城の見分を済ませたあと、2日の明け方に日永村へ入り、八ツ時(午後2時頃)には見分を済ました。その後、四日市陣屋へ移り、さらに北町帯屋十兵衛宅にて帰り支度を行い神戸に向けて出発したが、高岡川(鈴鹿川)の川留めによって、その日は日永村の庄屋稲垣藤右衛門宅に泊まることとなった。関係文書が残っていた庄屋宅である。3日は高岡川の川留めも解除され、七ツ時(午前4時頃)に日永村を出立している。
そして、同日、庄屋藤右衛門は、この改めが無事終了したことを受けて、「御籾改の義も都合よく相済し、……一統大慶仕り候」と書き記した。
このような内容は、藩側の史料からだけではわからない。やはり、双方の史料突き合わせが重要である。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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