トップページ  > 続・発見!三重の歴史 > 謎残る生と死の宗教画―熊野観心十界曼荼羅

謎残る生と死の宗教画―熊野観心十界曼荼羅


蓮蔵寺・熊野観心十界曼荼羅

蓮蔵寺・熊野観心十界曼荼羅


 以前、この欄で熊野観心十界曼荼羅(くまのかんしんじゅっかいまんだら)について取り上げたが、その後も県内では曼荼羅の発見が相次ぎ、また、三重県の特徴とも言える事例が判明するなどしている。
 熊野観心十界曼荼羅とは、縦1・5メートル、横1・3メートル前後の大画面に、生と死を主題に描いた宗教絵画である。画面上部に「人生の坂道」あるいは「老いの坂」と呼ばれる人の一生を描き、その下の「心」の字を中心にした画面には、仏、菩薩をはじめとする十の世界が描かれる。しかし、画中のほとんどを占めるのは生々しい地獄の描写で、特に血の池地獄や不産女(うまずめ)地獄といった女性に関係する地獄が描かれる。当時、この絵を往来にかけて「絵解き」と呼ばれる解説を行ったのは、熊野比丘尼(びくに)と呼ばれる女性の宗教者で、その主な対象は女性であった。
 現在、全国各地で報告された曼荼羅の数は50件を越えており、これからも増加する傾向にある。それらは細部に至るまで全く同一の絵柄はなく、近年それらは表現や折幅、紙継ぎ等によって分類・整理されつつある。ただ、曼荼羅の製作年代や工房の所在地等、基本的な部分でよくわからないことも多くある。
分類された曼荼羅の中に「別本」と呼ばれる一群があり、三重県には13点中3点が確認されている。最近発見された2点の熊野観心十界曼荼羅も別本で、それらは熊野比丘尼が持ち運んで絵解きしたものとは異なるものであることがわかってきた。
 津市の蓮蔵寺に伝来した熊野観心十界曼荼羅は、裏面の墨書から1724(享保9)年に寄付されたことが判明する。製作もほぼその頃と考えられ、時期が特定できる点も貴重である。蓮蔵寺の曼荼羅には、折り畳んだときに生じる折目がなく、全体の表現も緻密で美麗である。絵の具も一般の熊野観心十界曼荼羅に用いられたものに比べると高級で、この曼荼羅は熊野比丘尼が携行したものとは明らかに異なるものである。つまり、比丘尼が使っていた曼荼羅を元図にして、蓮蔵寺での絵解きなどのために作られたものである可能性が極めて高いと考えられる。また、蓮蔵寺と同様の目的で製作されたと思われる曼荼羅が、鈴鹿市の盛福寺と津市の勝久寺にも伝来している。しかも、この3点の曼荼羅が伝来する寺院は、すべて天台真盛宗の寺院である。
三重県内に伝来する熊野観心十界曼荼羅の多くが、同宗派の寺院であることは以前から指摘されていたが、相次ぐ別本の発見によって、天台真盛宗と熊野観心十界曼荼羅の関係が非常に特徴的なものであることが明らかになったと言える。しかし、全国的に見た場合、この結び付きは三重県だけの特徴であって、その理由については、今後さらに検討の必要がある。
 ところで、熊野観心十界曼荼羅の実物を一度にたくさん見ることのできる機会がある。三重県立美術館県民ギャラリーで、今月25日まで「三重の熊野観心十界曼荼羅展」が開催されている。入場無料。興味のある方は一度出かけられてみてはどうだろうか。なお24日(土)には、午後から熊野観心十界曼荼羅に関する講演会も開催される。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

関連リンク

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る