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「村人主体」認める―津藩の検地


元禄2年「検地諸入用之帳」(海野家文書)

元禄2年「検地諸入用之帳」(海野家文書)


 以前、本欄の47で、津藩前期の農政法令を分析し、同じ藩領内でも伊賀・伊勢国など地域的な差異があって地域に密着した施策を展開していたことや津藩がその施策の統一を目指していたことを記述した。今回は、津藩全体にわたって統一的に実施された検地について紹介したい。
 江戸時代初期の検地は、新しい藩主が入封した際に藩が主体となって行われることが多い。例えば、桑名藩久松松平氏は桑名へ入封翌年の1636(寛永13)年から、亀山藩本多氏は入封翌年の37年から検地を実施している。これらはいずれも藩役人が中心となり、村人を使って検地を実施し、それをもとにして年貢の割付などを行っているのである。
ところが、津藩藤堂氏の場合は、入封後には検地を行わず、50年も経った1657(明暦3)年になって、ようやく検地実施の触を出し、それ以降、江戸時代中頃まで順次検地が行われることになる。しかも、その検地は、他藩とは異なり、形式上は村からの嘆願による村人主体の検地であり、それを藩役人が認めるというものであった。
  また、検地の研究に関しても、これまでは検地の結果を書き上げた「検地帳」の分析を主体としたもので、耕作者の所持高・地位(じぐらい)・石盛などを比較する定量分析が多く、検地作業の手順や費用などの状況はわからなかった。そこで、今回は、津藩の検地の手順や経費などの様相がわかる「入用帳」をもとに検地の実態を見てみようと思う。
  県史編さんグループに寄託されている文書群の中に、1689(元禄2)年に安濃郡粟加村(現津市)で実施された検地に関する「入用帳」がある。それによれば、検地は、88年12月に藩へ願い出た時の庄屋や村役人の飯米の記述から始まっている。翌年正月9日〜11日には縄ないなど検地の準備がなされ、その後、道付見分が行われている。そして、正月22日から閏正月7日までに都合11回の土見(つちみ)が行われた。この作業は田畑の地位や石盛などを決定するもので、土見役人5人・竿取・縄引役人・庄屋・年寄も含め14人で執り行っている。その作業を受け、閏(うるう)正月11日〜14日に土見帳を写し、閏正月20日には最終の土見作業が実施された。26日には、土見が終わったことで長谷村・分部村・前野村・戸嶋村など周辺村落から検使役人が来村している。ここまでが検地の第一段階である。
  そして、次の段階として、縄引・竿立などの実測作業が始まる。その期間は、閏正月25日〜2月21日の休みを除き20日間であった。作業は、竿取・縄引役人・庄屋・年寄の11人が中心となり、そのほか、茶わかし人足・台所人足・風呂焚き人足なども村人が当たった。実測の様子を、検地結果を書き記した「内検帳」で確認すると、村の中央部の南から北の小字、東側の川縁の小字、最後に西側山あいの小字の順で行われている。さらに、2月晦日に「内検帳」が仕立てられ、検使役が帳面の検査のため再び来村している。その後、3月中旬〜4月に「内検帳」をもとに個人別所持高を集計した「名寄帳」が作成され、7月には藪検地も行われて粟加村の一連の検地が終了したのである。
  さて、ここで「入用帳」から藪検地を除く検地の費用を見てみると、その費用は金子14両2分余、米12石余で、その合計は米俵換算で86俵3升3合(石高換算34石4斗3升3合・金換算で約24両)であった。この費用の内訳は、紙・筆・油代・蝋燭・わらじ代などの道具代、検地日当などで、そのほかに酒・大根・牛蒡・茶・たばこ代などの嗜好品・料理材料や接待費用なども含まれていた。これらの費用は村役人や村人が一時立て替えをし、その合計を村相談の上で精算するものであったが、これらの費用は基本的に年貢負担と相殺された形で村負担とならないようになっていたため、実質的な村の負担は1石7斗ほどであった。
 ただ、津藩は、「水帳(みずちょう)(検地帳)がない村落は速やかに地押(じおし)(検地)を実施するように」と触れを発布しており、検地が村主体に行われたとはいうものの、実質的な村負担の実態を見ると、藩が検地を実施したと考えられなくもない。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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