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発布時期、文言に地域差―津藩の「郷中十七か条」


伊賀国領の「郷中十七か条目」写(水口家文書)

伊賀国領の「郷中十七か条目」写(水口家文書)


 1681(天和3)年8月14日付けで出された津藩の「可相守条々(あいまもるべきじょうじょう)」、いわゆる「郷(ごう)中(ちゅう)十七か条目」は、津藩の農政における根幹法令であった。それを傍証するかのように、1691(元禄4)年6月には「十七か条の御条目をよく守り、庄屋や年寄は月々に油断なく読み聞かせるように」との一札が出されている。また、1807(文化4)年の「郷中倹約の触」でも、「十七か条のことは、これまでも念を入れ申し聞かせることとなっているけれども、守らない向きもあるとのことなので、大庄屋どもは、今後、百姓たちへ月々に一度ずつ読み聞かせ、そのことを心得るように」と触れられている。それに、法令の一部が手習い本にもなることもあり、これを使って百姓へ法度(はっと)の遵守や心得を教諭していたものと推測される。
さらに、それが明治期まで影響していたことは、よく知られている。支藩の久居藩ではあるが、一志郡の多野田村(現津市)文書中には、1869(明治2)年9月に郡政曹より各村落の村長・保長・惣百姓宛に出された「郷中十七か条」が見られる。
  ところが、この法令は、伊勢・伊賀国に同時に触れられたものではなく、まず、伊勢国へ触れられ、その後、伊賀国に発布されたのである。ここでは、両国での発布の経緯等について検討を加えてみたい。
  両国に出された「郷中十七か条目」の発布時期及び発給者を比較してみると、伊勢国では1681年8月14日に、玉置甚三郎と吉武次郎右衛門の連名で、伊賀国では1689年4月14日に、吉武次郎右衛門と山中彦助の連名で出された。およそ6年後である。発給者は、それぞれの国の加判(かはん)奉行(ぶぎょう)で、吉武次郎右衛門は伊勢国から伊賀国の加判奉行に異動になっていた。
また、文言に注目してみると、伊勢国では5か条目に田畑・山野の境については「自他入組(じたいりくみ)」とあるのに対し、伊賀国ではこの文言はない。すなわち、伊勢国では、一村落が津藩領のほかに紀州藩領などの他藩領と重なっている村落(相給(あいきゅう)村落(そんらく)という)があり、その村では耕地の入り組みがあるために、このような文言が必要であったと考えられる。また、文書の後書(あとがき)には、「右十七か条之趣」に続き、伊勢国では「御領下(ごりょうか)郷中(ごうちゅう)」とあるのに対し、伊賀国では「当国郷中」とある。伊賀は一国であることから「当国」となっているのであり、これらの点が十七か条目の両国における違いである。
  さて、このように両国で出された十七か条目は根本法令であるにもかかわらず、なぜ伊賀国で遅れて発布されたのであろうか。その背景には、伊賀国では、1677(延宝5)年頃から農政に関する法令が矢継ぎ早に出されて、十七か条目に代わる法令があった。さらに、1686(貞享3)年8月の触に「伊賀・伊勢諸事(しょじ)一致(いっち)に成候(なりそうろう)様(よう)にと仰せ出され候事」とあるように、この時期には伊賀国と伊勢国との間で法令を含めて政務が一致していない状況にあったことがうかがわれる。そして、前述したとおり、伊勢国での発給者の一人であった吉武次郎右衛門が1689年閏正月に伊賀加判奉行となったことから、伊賀国に「郷中十七か条目」が発布されたのかもしれない。
  なお、支藩の久居藩との比較では、文言は同じである。ただ、発給日が1683年9月となっていること、発給者が久居藩役人であること、後書に「右条目のうち、是迄(これまで)も往々(おうおう)申し付け置き候」と記される点が津藩伊勢国領の分と異なっている。
 このように見てくると、本藩・支藩の違いよりも国による違いが大きかったようである。津藩のさまざまな歴史事象を見る上でも、こうした地域差を考慮していくことが重要であると思う。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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