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侍から足軽まで100人超―津藩伊賀城代・藤堂采女家の家臣団構造


画像は後日アップします 「切米帳」(伊賀市上野図書館所蔵)

画像は後日アップします 「切米帳」(伊賀市上野図書館所蔵)


 津藩の成立は、1608(慶長13)年の藤堂高虎の伊賀・伊勢国入封による。その際、伊賀領国を支配するにあたり、藤堂出雲など重臣を伊賀上野城へ配置した。そして、二代高次時代の40(寛永17)年になり、伊賀国の土豪出身の藤堂采女元則を伊賀城代家老に取り立て、伊賀国の采配を任せた。
今回は、伊賀城代家老藤堂采女家の家臣団構造について紹介したい。
  近世大名家の藩政を支える上級家臣は、藩主から多くの知行を宛行(あてが)われ、家来(直臣)を召し抱えている場合が多かった。それは、上級家臣がもともと土豪・小領主として譜代の家来を召し抱えていたからであり、自身が大名家の家臣に組み込まれることで、譜代の家来がそのまま陪臣として大名に召し抱えられることになったのである。
そして、武家には知行を与えられる代わりに軍役(ぐんやく)が課せられたが、采女家は、藩の規定により、騎上7騎・鉄炮15挺・弓2張・鎗18本、その他若党、道具持ちなどの供廻り31人が課せられた。これらの軍役は家臣によって果たされたわけであるが、一般的に家臣団は侍(知行取)・徒士(かち)・足軽等武家奉公人などの階層に分かれた。
 藤堂采女家の場合、1657(明暦3)年の「切米帳」で見ると、侍層として佐脇小左衛門の200石を筆頭にして、50石の渡部与左衛門までの家来19名が記されている。例えば、200石の佐脇少左衛門の場合、その内訳は100石が所知行、残り100石のうち、35石が蔵米として伊賀で渡された。所知行とは、直接に年貢徴収することのできる村落(知行地)を宛行われることであり、おそらくは采女家が知行していた伊賀・伊勢国の村落の一部を宛行われたのであろう。当時、所知行からの収入は、年貢率が「四つ物成(40%)」となっていたから40石ぐらいで、蔵米との合計では75石ほどとなる。ただ、蔵米として渡される分は人によって異なり、50石取りの渡部与左衛門の場合は蔵米だけの支給で、15石であった。
  なお、采女家は知行高7000石で、40%に当たる2800石の実収入があったが、こうした侍層の俸禄合計が664石で、約4分の1が侍層の俸禄として使われたのである。
  ところで、これら侍層の由緒については、藤堂采女元則の隠居前年の1650(慶安3)年と思われる藤堂監物・四郎右衛門宛ての書状の中で「知行取は19人おり、4人は大坂にて手をもふさぎ申もの」、残り15人が「私取たてのもの」であったという。前者は大坂の陣まで敵方であった者が後に家来となったものと推測されるが、詳細はわからない。また、この書状からは「長門(元則息子)に「一人もちらし申さざるようにかたく申し聞かせたく候」と、代替わりに際して、家来を解雇するのではなく、継続して取り立てられるよう配慮したい旨が述べられている。
  次に、徒士層と考えられる階層について見ると、禄高は一部を除き10石前後で、その人数は37人ほどであった。これらの階層は、主人の身辺警護や侍層に供奉(ぐぶ)したと考えられる。そのほか、合力米を給された馬医・外科医・坊主など、十数人も抱えられていた。
  それに、足軽等の武家奉公人がいた。徒士層以上と足軽層と間に大きな格差があった。武家奉公人は、一年切りでの採用が多く、支配農村(伊勢国では今徳・草生・高座原村など、伊賀国は予野・南・比土村など)からの取立が多かったと言われている。禄高は2〜6石で、道具持ち・草履取り・馬の世話・門番・人足などで軍事の補助や采女家の日常生活に関する職務を担っていた。伊勢国で25人、伊賀国で26人が雇われている。
以上のように、采女家一家に仕える家臣は100人を優に超えていた。こうした多くの陪臣を抱えた上級家臣はほかにもあり、津藩全体となれば相当数の家来がいたことになる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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