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修験者「小天狗」の製作−伊賀市山出の勝因寺の梵鐘


写真 勝因寺梵鐘

写真 勝因寺梵鐘


 今年もいよいよ押し詰まってきた。大晦日の夜には、各地で除夜の鐘を撞(つ)く光景が見られることと思う。
三重県内には数多くの梵鐘(ぼんしょう)があるが、製作年次の古いものは意外に少なく、平安・鎌倉時代にまで遡るものはない。現在、県内に残る梵鐘中で最古の記年銘を有するのは、鈴鹿市桃林寺のもので、1436(永享8)年の年号が刻まれる。この梵鐘は、かつて尾張国(現・愛知県)にあったもので、江戸時代に桃林寺の所有となった。梵鐘本体は移動可能なものであるため、このように他所からもたらされる場合もある。
  今回紹介する伊賀市山出の勝因寺(しょういんじ)の梵鐘は、地元で発願されたことが明らかな、しかも1612(慶長17)年という比較的早い時期の製作である。記年銘のあるものでは県内で三番目の古鐘であり、総高1メートル弱のやや小振りなものである。形状は一般的な袈裟(けさ)襷(だすき)文(もん)梵鐘で、鐘身肩部の乳(ち)の間4区にそれぞれ4段5列に鋲頭形の乳を配し、龍頭(りゅうず)と同方向の位置に2つの八葉蓮弁形撞座を鋳出する。和鐘の伝統形式を踏襲するもので、鐘身の刻銘によって、鋳造の意趣・結縁者・製作年・鋳師等が明らかになる。
  それによると、この梵鐘は、元来愛宕山大福寺の什物として鋳造されたもので、「本願小天狗」と記されており、小天狗という人が中心となって、鐘を鋳造し寄進したというのである。小天狗は、俗名を清蔵といい、山出に生まれた。幼少の頃から他の子供とは性質や品行を異にし、特にその容貌が天狗に似ていたことから小天狗と呼ばれ、やがて本人もそう称するようになったらしい。彼は桃山期から江戸初期にかけて活躍した修験者で、戦国時代の戦乱で荒れ果てた伊賀内外の社寺復興に尽力した。特に、大型の金属什器製作を積極的に進めていることが特徴である。また、名前の隣に「大峯三十六度」とあるのは、彼が大峰登山三十六度を記念しての製作と判断されるものである。
  このほかに、小天狗清蔵が製作・寄進したもとして、同じ伊賀市内では1598(慶長3)年銘の敢国神社鉄湯釜や1620(元和6)年銘の猪田神社鰐(わに)口(ぐち)等があげられ、奈良や京都にも小天狗銘の梵鐘がいくつか見られる。
  晩年、彼は勝因寺に隠遁(いんとん)し、1632(寛永9)年に亡くなった。墓は同寺にあり、山伏姿の肖像彫刻が伝来している。木造彩色像で、右手に経巻を持ち、左手には錫杖(しゃくじょう)を執って倚坐(いざ)する姿である。もとは伊賀市内の愛宕神社にあったものといい、明治初年に勝因寺に移された。また、彼の弟子たちも小天狗を名乗り各地で勧進活動を行ったようで、棟札や梵鐘銘に「第二小天狗」、「第三小天狗」と記されたものがある。
  勝因寺梵鐘の作者は、銘文によると「南都天下一作久怡(きゅうい)/弥左衛門」で、これに地元「四十九(しじゅうく)」村の「善右衛門」、「源七」、「新四郎」らが補佐する形で製作されたと考えられる。南都とあるように、久怡と弥左衛門は奈良の鋳物師で、東大寺大仏の修復(補鋳)に関わった人物とみなされている。当時活躍していた著名な鋳物師が、梵鐘製作を指揮している点が注目される。彼らは、同じ年に奈良・大峰行者堂の梵鐘も製作したが、その寄進者が小天狗清蔵で、修験道上のつながりが両者を結んだという指摘もある。
また、銘文に見える地元鋳物師たちの名前も近世初期の鋳物師史料として貴重である。それは、近世後期の文書中に四十九村在住の鋳物師の名が見え、善右衛門らとの関係は不詳であるが、小天狗清蔵による勧進活動の成果が鋳造技術の伝承という形で受け継がれている可能性もあって、なかなか興味深い。
いずれにしても小天狗清蔵という人物は、修験者であるとともに、戦乱で荒廃した伊賀地域の復興を指揮したプロデューサーのような側面もあったのではないだろうか。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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