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後世に追刻の可能性も―高岡山根墓石の碑文


高岡山根基石の碑文

高岡山根基石の碑文


 津市一志町の高野団地付近を、一部県道と重なりながらかつての初瀬街道が通っている。団地を右に見ながら西の方向にゆるやかな坂道が続いており、谷戸坂(たんどざか)と呼ばれている。街道は井関の共同墓地を過ぎたところで県道を右に折れ、小路に入って谷戸峠に向う。以前は、この道に当地名産の井関石が敷き詰められ、落ち着いた雰囲気であったという。また、この峠は近くにボタン岩という岩が出ることから、ボタン峠とも桜峠とも言われた。峠の頂上には茶屋跡があって、明治の頃までは沢蟹焼の露店が軒を並べていたという。
  谷戸峠から300メートルほど北に高岡山がある。ここは雲出川を眺める景勝地であり、また高野用水(高野井)に関わる史跡が多く残されている。寛永年中(1624〜44)に旱魃が相次ぎ、農民らは灌漑に苦しんだ。そのため、近在の八太村大庄屋田上八太夫らが発起人となり、水路の敷設を願い出た。郡(こおり)奉行の山中兵助為綱は、自ら水路を調査し、藩主に願い出て井堰と用水路の工事に取り掛かった。幾多の困難を乗り越えて、1653(承応2)年に工事はようやく完成した。高野村をはじめとする八ケ村は、為綱の偉業を伝えるために、その死後、堰守神社にその霊を祀った。現在、堰守神社跡や竣工を刻んだ唐戸石、それ以前の「一ノ筒」跡などが残っている。
その高岡山山腹に、根基石と呼ばれる砂岩質の大きな岩があって、そこに次のような碑文が彫られている。
「是((?))ヨリ南初瀬街道ヲ境トシ 西北ハ雲出川ニ沿ヒ東ヘ 一里余高野村地ナリ 天正十九年正月日」
 天正19年は西暦1591年に当たり、この碑文は今から400年余り前に刻まれたものということになる。内容は、この石を基点に村境を示したものと考えられ、あるいは境界を巡る争論等を契機に刻銘されたものかもしれない。県内でも天正の年号が入った石造遺物はそう多くなく、興味深い例と言える。ただ、碑文の内容を見ていくと、少しばかり気になる点も浮かんでくる。
 まず、「初瀬街道」という名前である。初瀬街道の名は、1877(明治10)年に発行された「三重県統計表」中の「諸街道里程」に見え、おそらく、この頃以降に初瀬街道の呼び名が一般化していったと考えられている。
それ以前は、峠の名をとって「青山越」と言ったり、峠の麓の村名から「阿保越」、「小倭(おやまと)越」と呼ばれたりしている。阿保(現・伊賀市)や小倭(現津市白山町)を知らない人々にとっては「初瀬道」が最も一般的であったようである。いずれにしても、初瀬街道という名前は、天正の時期にはあまり馴染みのないものと思われる。
  また、天正の年号が明らかに記されているものの、この時期ならば普通併記される「辛卯(かのとう)」という干支がない。さらに、砂岩質の岩肌に刻まれた天正期の刻銘が、果たして今も判読できるほどに良好な状態であり続けることができるだろうか。少ない石造物調査の経験ではあるが、砂岩の場合は江戸後期のものでさえ摩滅して読めないことがかなりある。何か銘文の周りを覆う、屋根のようなものがあったのだろうか。
 いろいろと気になる点を書いてみたが、ことによると天正19年という何らかの根拠となる年号を、後世に追刻したという可能性も考えられるのではないだろうか。たとえば墓石に命日を刻むが、命日が必ずしも墓石建立の年月日とは限らないのと同様のことが、この銘文にも言えるのではないだろうか。
  石に刻まれた文字や年号を、ともすれば私たちは無条件に信用してしまう傾向があるように思う。近年盛んになってきている石造物の調査ではあるが、年号の判断等に際しては、今一度慎重な姿勢が必要ではないかと強く感じている。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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