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祝賀・祈祷行った「呪師」―伊勢猿楽三座



 我が国の伝統芸能のひとつである能楽(のうがく)は、近代以前には猿楽(さるがく)と呼ばれていた。これは、古代中国の「散楽(さんがく)」から変じたものとされている。
現在、能楽と言えば、観阿弥・世阿弥を排した観世座をはじめとする、金春(こんぱる)座・宝生(ほうじょう)座・金剛座の、いわゆる大和猿楽の四座がよく知られている。しかし、本県にも、中世以来、「伊勢三座」と総称される猿楽座があった。
中世の伊勢猿楽三座とは、現在の松阪市和屋(わや)町を本拠としていた和屋座と、同じく度会郡玉城町勝田を本拠とした苅田(かつた)座、そして松阪市阿波曽の青苧(あおそ)座の三座を指す。なお、青苧座については、史料により「青尾」、あるいは「青王」などとも書かれる。
  猿楽は、鎌倉時代の後期頃より座を形成し、現代でも見られるような劇形態の「能」を生み出したとされるが、本来は祝賀や祈祷を目的とした芸である「翁(おきな)」や「三番叟(さんばそう)」などの、いわゆる翁猿楽が中心であったと言われている。特に伊勢三座はその傾向が強く、「呪師」(じゅし・のろんじ)とも呼ばれた。
  伊勢三座がいつ成立したかについての史料はないが、確実な文献史料での初見は、1344(康永3)年に成立した「法楽寺文書紛失記」に見える「今呪師」である。この時、「今呪師」は大淀(現明和町)で田地4反を得ていた。  
この「今呪師」とは、内宮の一祢宜であった荒木田氏経の日記「氏経神事記」1486(文明18)年正月4日の記事に「呪師参、和屋、五日苅田、七日今呪師」とあることから、後の青苧座を指していることはあきらかであり、青苧座の成立そのものが、遅くとも南北朝時代にさかのぼることが確実であることを示している。そして、青苧座が「今呪師」と呼ばれていたことから推して、和屋座や苅田座の成立は、恐らくそれ以前であると見て間違いないであろう。
中世の伊勢三座に関する史料は非常に少ないが、先に見た「氏経神事記」の記事にあるように、室町時代には伊勢神宮と深い関係にあり、正月には三座が日ごとに入れ替わり、猿楽を奉納していたことがわかっている。  
「氏経神事記」と同じ頃に成立した「内宮(ないくう)年中(ねんちゅう)神役下(しんやくげ)行記(ぎょうき)」には、正月4日のこととして「呪師和屋大夫参、大庭ニ木屋ヲ拵(こしらえ)、畳ヲ敷」とあり、小屋掛けして猿楽を演じたことを示す記事が見えている。また同記では、その時、酒や海老などの肴(さかな)が振る舞われた様子もうかがえる。5日の苅田大夫も、6日の今呪師も同様であった。
この時の演能についての記載はないが、近世の記録によると、正月の例楽の演能は「翁舞」だけであったが、古くは、まず「獅子六舞」の後、「翁舞」と「三番叟」を奏し、別に「猿楽三番」を舞ったと記されており、中世の様子を彷彿とさせてくれる。また、「氏経神事記」1466(文正1)年正月6日条には、「今呪師今日外宮、呪師為御覧被急」とあり、祢宜等神官たちも、楽しみに猿楽に興じていたようである。
また、伊勢三座は、当時南伊勢を領有していた北畠氏からも、手厚く庇護されていたと言われている。1557(弘治3)年に伊勢国司北畠氏のもとを訪れた山科(やましな)言(とき)継(つぐ)の日記にも、田丸城で猿楽が催されていたことが記されている。さらに「看聞(かんもん)御記(ぎょき)」には、1416(応永23)年、伊勢猿楽が、雇われて京都の神社の神事能に出演していたことも記されているのである。
近世になると、伊勢三座はそれぞれの拠点を離れ、伊勢山田(現伊勢市)に移った。早くに廃(すた)れた青苧座を除き、和屋座が移った伊勢市一色町や苅田座の同市通町では、今も廃れることなく継承され、中でも古式を伝える一色町の翁舞は国の無形文化財に指定されている。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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