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北畠氏介入で大規模化−宇治と山田の合戦


山田三方三印状(松阪市教育委員会所蔵)

山田三方三印状(松阪市教育委員会所蔵)


 室町から戦国時代には、内宮と外宮の膝元の宇治と山田に、それぞれ「宇治六郷」「山田(ようだ)三方(さんぽう)」という自治組織が形成されていた。
 宇治六郷とは、「上二郷」と呼ばれた岩井田・岡田と、中村・朝(あさ)熊(ま)・楠部・鹿海(かのみ)の「下四郷」である。このうち「上二郷」は、現在の宇治浦田町から館町・中之切周辺を指す。また、山田三方は「坂方」「須原方」「岩淵方」からなっていた。いずれも、それぞれ花押を模した黒印を、自治組織の印として用いていたことでも知られている。なお、大湊やその周辺の「浜七郷」の自治組織も、同様に花押形の黒印を使っており、この地域における自治組織の、一つの特色と位置づけられる。
 ところで、内外両宮の門前として発展した宇治と山田ではあるが、戦国時代を通じて度々対立し、時には激しい合戦にまで発展することもあった。写真は、1543(天文12)年、宇治との合戦で討ち死にした助四郎の香典として、「麻座壱間」を、山田三方から久保の五郎兵衛に与えたものである。当時山田には、米・魚・相物(あいもの)・瀬戸物・酒などの座が、「上市」とも呼ばれた八日市場周辺に多数存在していた。
 中世の「座」とは、一般的には同業者組織ともいうべきものであるが、山田の場合、「座」の一間とは市場における店舗そのものが含まれており、おおよそ5貫文で売買されていた。1反の田畑が4・5貫文で売買されていた当時、香典料としては相当な高額であり、宇治との抗争での犠牲者に対して、相応の優遇措置がなされていたことがうかがい知れる。
 このほかにも、宇治と山田の合戦については、いくつか当時の文献に記されているが、合戦が時に大規模化した背景には、南伊勢に勢力を伸ばした北畠氏の介入があった。
 1486(文明18)年、宇治と山田の境に位置する小田に、山田方が番所を設け、宇治への物資や参詣者の流入を妨げたことに端を発した合戦では、北畠氏が宇治方に合力し、ついには外宮正殿まで焼失するに至っている。これは、追いつめられた山田方の張本人榎倉武則(えのきぐらたけのり)が、正殿に放火したことによる。この事態を歎いた当時の内宮一祢宜荒木田氏経は、自ら食を断って死去している。
 その3年後の1489(延徳元)年、今度は、北畠氏との関係を背景に増長した宇治に対し、山田三方が猛反撃。その様子は『内宮子良館記(ないくうこらだちき)』に委しく記されている。  
 それによると山田方は、中心である三方のみならず、近郷にも合力を頼み、現在の大湊周辺から玉城町に至る軍勢が、一挙に宇治に押し寄せた。攻め口は実に17箇所に及んだとされる。その様子は、誇張も含めて「数百万の勢が、四方八方から、十重二十重に取り巻いて攻めかかった」と記されている。
 ところで、この時、本来宇治六郷中であるはずの朝熊・鹿海さえも山田方となって攻め込んでいる。このため、その後、岩井田・岡田・中村・楠部を「上四郷」、朝熊・鹿海を「下二郷」と称し、1568(永禄11)年の宇治六郷連判状では、「六郷」としながらも、朝熊・鹿海郷は含まれていないのである。
 戦国時代末期から近世初頭のころ、山田の人口が約3万人であったのに対し、宇治は7千人弱であり、兵力的にも宇治方は圧倒的に不利な状況であった。宇治方が終始北畠氏寄りであったのは、こうした状況に対応するためもあったと考えられる。

(県史編さんグループ 小林秀)

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