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室町時代の仏師、定栄



 三重県内には多くの古仏像が伝来しているが、その仏像が制作された年代や仏師の名前などがわかるものはそう多くない。ここに紹介する志摩市阿児町の国分寺本尊、木造薬師如来坐像は、像内の墨書銘によって、1507(永正4)年という制作年と、「定栄」という名の作者が判明する貴重な例である。
  薬師像は像高が2メートル近い、志摩地方でも屈指の巨像である。左手に薬壺を持って坐る一般的な薬師如来の姿で、三重県の有形文化財に指定されている。この像が初めて紹介されたのは、1953(昭和28)年のことで、平松令三氏が雑誌「三重の古文化」に論文を発表された。注目されるのは、定栄が安濃津に居住した仏師ということである。
 奈良興福寺大乗院の僧尋(じん)尊(そん)が記した日記「大乗院寺社雑事記」の中に、1496(明応5)年の長谷寺本尊十一面観音立像再興の記事がある。造仏に関係した仏師の名前が記載されているが、右方棟梁「土佐法橋定春」の脇仏師として「勢州安野津住 帥法眼定栄」、「定栄息 少弐房院栄」の名前がそれぞれ見える。このように、定栄は地元の安濃津に拠点を置く仏師で、息子の院栄と共に長谷寺の本尊再興に関わったことが、平松氏の指摘によって明らかになったのである。
また、国分寺薬師如来坐像の銘文には、定栄と共に「孫子師院長」の名前が見えるが、これは、孫の院長が祖父定栄を助けて造像活動を行ったものと考えられる。「大乗院寺社雑事記」の記事と銘文と重ね合わせると、定栄―院栄―院長という、三代にわたる系譜が確認されることになる。
  ただ、現時点では院栄の名前を記した仏像が発見されていない。おそらく、院栄が物故するなど、何らかの事情で定栄の後を継げないような事態となり、孫の院長が急遽その後継者となったのではないかと考えられる。
平松氏は、彼とその子孫の手になる仏像がまだ三重県域に残されている可能性を示唆されたが、その後、鳥羽市や津市で作例が発見されている。
  鳥羽市石鏡町の円照寺薬師堂本尊、木造薬師如来坐像は、像内の銘文から1514年に院長によって造られたことが判明する。像高66センチメートルと、国分寺の像に比べると小さいが、やや大降りに表現された螺(ら)髪(ほつ)やがっしりとした肩の造形には共通する印象が感じられる。この2体は割合近い距離にあって、あるいは国分寺薬師如来坐像制作の実績から、定栄の後継者である院長に発注されたことも考えられよう。 
  また、近年実施された津市仏像悉皆調査によって、殿村自治会が所蔵する木造十一面観音坐像が、像内の銘文から新たに定栄の作であることが認められた。
本像は頭上面の一部と両手先を失うなどしているものの、その他の保存状態は比較的良好で、中でも面部は当初の状態を良く残している。制作年は1497年で、これは長谷寺再興の翌年に当たる。像高18.8センチという円照寺よりもさらに小さい像ながら、中央の正統な作風を示す、定栄の達者な技術がうかがえる重要な作例である。このように、少しずつではあるが、県内において定栄らの作例が発見・確認され、資料が充実してきている。最近では、定栄が安濃津だけでなく、都でも活動していたとする研究成果が発表され、新たな一面が浮上してきている。
  このほか、県史編さんに伴う国分寺薬師像の調査で、後頭部部内面にも墨書が記されていることが判明した。年号は無く、人名が列挙されている。おそらくこれらは、造像にかかわった結縁者名ではないかと考えられる。残念ながら、どのような人物かは不明であるが、今後少しでも明らかにしていきたい。
 定栄は、三重県の仏像史にとって非常に魅力的な人物である。今後も様々な方面からの情報を期待したいと思う。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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