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結束した在地の有力者―一志郡小倭一揆について



 わが国の中世は、畿内とその周辺域を中心に、様々な人々が集結し、自らの権益を守り主張する姿がいたるところで見られた。例えば、市場に集う商人や職人らは、商品や職種ごとに「座」を形成していた。また、村々では集落や村単位で「惣(そう)」と呼ばれた自治組織を形成していたのである。
 本県域では、神宮の門前として栄えた宇治や山田(現伊勢市)で、米座や魚座、麹(こうじ)座や瀬戸物座などといった多くの座のあったことが知られている。それに、全国でも本県のみに確認できる水銀座もその一つである。
 「惣」としては、多気郡の「御糸六十六郷」(現明和町)や「佐奈十一郷」(現多気町〜松阪市)などが、史料中で散見することができる。これらは、複数の村落が連合した形態のものである。
 それに対して、在地の有力者や領主階層のものたちで形成されたのが「一揆(いっき)」である。
 これは、近世に見られる、いわゆる「百姓一揆」とは異なるもので、対内的には、ややもすると武力衝突になる領主間のいざこざに対処し、対外的には、集団化することで大名などのより強大な権力に対抗しようとするものである。著名な「伊賀惣国一揆」はその大規模なものであると言えるが、ここに取り上げる一志郡小倭(おやまと)(現津市白山町・一志町)の一揆もその一つである。現在、天台真盛宗の寺院、成願寺には、「成願寺文書」として多くの小倭一揆関係の史料が残されており、県の有形文化財に指定されている。それらを分析することで、小倭一揆の実像が明らかとなる。
 まず、小倭一揆は、「在地(ざいち)徳政(とくせい)」が行われていたことで、学術的によく知られている。  「徳政」とは、一言で言えば、貸借・売買行為を無効にして、売却された田畑などを売り主に返却するものである。歴史的には、鎌倉幕府による永仁の徳政令が知られているが、小倭では、一揆内で「徳政衆」を組織し、在地で徳政を管理していたことが明らかにされている。これは、全国的にも、非常に特異な事例である。また小倭一揆では、徳政衆とは別に「老分(ろうぶん)衆(しゅう)」があり、一揆組織の中核を成していた。
 ところで、在地の領主層が集う一揆では、個々の利害が錯綜するだけに、結合の目的や主旨、規範などが必要となる。先述した「成願寺文書」の中には、1494(明応3)年9月21日付けで結ばれた、小倭郷の殿(との)原衆(ばらしゅう)(有力者や領主層)による一揆契状が残されている。
 殿原衆の一揆契状は、書き出しを「真盛上人様へ申し上げ候条々」として、小倭出身の真盛上人に対して誓約する形で、6箇条の約定が記されている。
 内容は、まず何か事が発生したならば、たとえ親子兄弟であっても、贔屓(ひいき)することなく公正に対処することが求められ、衆議に反した場合は、一揆から追放する旨が明記されている。これは、組織としての「一揆」を公の場として明確に規定し、私的な関係や感情を優先させることを否定するものであり、現代の「公共」概念にも充分相通じるものがある。
 次に、強盗や放蕩(ほうとう)行為についても強く戒めているが、特に注目されるのが、郷内のみならず、他所への悪党行為や報復行為まで禁止していることである。これは、他の一揆契状ではあまり見られないものであり、真盛上人への誓約の形態を取る小倭一揆契状の特徴と言える。
 契状には、「互いに水魚の思いをなし、親子兄弟の芳契と存ずべし」として、子々孫々この契約を守るよう記されている。公共の概念が薄れつつあるとされる昨今、見習いたいものである。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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