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赤外線調査で新事実―伊勢国司北畠政勝像


逸方寿像賛赤外線写真(撮影・大久保 治、三重県埋蔵文化財センター提供)

逸方寿像賛赤外線写真(撮影・大久保 治、三重県埋蔵文化財センター提供)


 松阪市の浄眼寺(じょうげんじ)に伝来している北畠政(まさ)勝(かつ)の寿像(生前に描かれた図像)については、前シリーズの『発見!三重の歴史』で既に紹介したところである。
昨年の夏、三重県埋蔵文化財展が開かれ、本図も展示された。その時、所蔵者御同意の上で赤外線や画像解析の調査を行い、現在の賛の下に別な賛があり書き換えがなされていること、図像についても若干の加筆修正のなされていることが確認された。こうした新たな発見を基に、今回は、戦国大名北畠政勝の、今まで知られてこなかった人物像の一面に迫ってみたい。
 この図像の構図は、僧形の男性が、右手に数珠、左手には教典らしき巻物を持って赤い日輪を振り仰いでいるものである。そして、現状では「当寺開基無外逸方大禅定門之寿像」と題した1494(明応3)年の浄眼寺開山だいくうげんこ大空玄虎自筆の賛が書されている。  
ここで、改めて伊勢国司北畠政勝について紹介しておく。
 政勝は、従二位権大納言北畠教具(のりとも)の子として生まれた。残念ながら生年は不明であるが、初めは「政具(まさとも)」と称し、後に「政郷(まささと」と改名。家督を継承したのは1471(文明3)年で、文明12年、長野氏との合戦で大敗。それにともない「政勝」と改名した。
 文明18年7月、政勝は嫡男ともかた具方を北畠家督とし、自身は出家して「無外逸方」と号した。このことは、奈良興福寺の別院大乗院の門跡である尋(じん)尊(そん)の日記に記されており、現状の賛とも一致する。
 さて、下の賛であるが、上の賛との重なりから判読できない文字もあるが、書された年月日は「文明十年戊戌九月十八日」とある。つまり、現状の賛の書された明応3年から16年ほど前のもの、ということになる。そして、肝心の像主については、「安養開基天綱常統大禅定」と記されている。
 文明13年、政勝は阿弥陀三尊を造り、多気の国司館での開眼供養に、臨済宗の高僧で伊勢国の出身であるりょうあんけいご了庵桂悟を招いた。その時の了庵桂悟語録にも「三宝弟子安養寺殿天綱常統四品羽林源朝臣政勝」と記されているのである。このことによって、文明10年段階での図像も、やはり北畠政勝本人であることが確認できる。そして、この時政勝が「天綱常統」という法号を持っていたこと、及び「安養寺殿」或いは「安養開基」と称せられていたことも明らかとなる。
 この「安養寺」とは、現在の多気郡明和町に所在する臨済宗東福寺派の古刹安養寺のことである。実は、政勝が家督を継承した前年の文明2年、了庵桂悟が本寺の住職として入山し、翌文明3年には、寺領等を安堵する北畠政勝の御教書が安養寺に発せられている。政勝が「安養開基」とされたのは安養寺の再興などに貢献したためと見られ、そうした経緯が了庵桂悟に帰依した契機となったと考えられる。
 ところで、大乗院門跡尋尊の日記の文明7年9月8日の記事に、伊勢国から帰った僧侶の情報として、「伊勢国司隠居」の噂が伝えられている。しかし、前述したように、政勝の入道は文明18年であることから、この記事は誤伝であろうと見られてきた。しかし、文明10年で既に「天綱常統」という法号を有していたこと、また図像についても頭部には修正がなく、文明10年段階で政勝が剃髪していたと見られることから、文明7年での落飾が「国司隠居」の噂になったと考えられる。
 政勝は、仏弟子となった後も伊勢国司として領域支配を行い、朝廷からは従四位上右近衛権中将に任じられている。しかし、父教具が従二位権大納言、子息の具方も正三位権大納言にまで昇っているのに対し、政勝自身は従四位と官位が低かった背景には、この早すぎる落飾が影響したことは確実であろう。
 文明18年、政勝は家督を具方に譲って改めて入道し、「無外逸方」と号する。ただ、なぜ臨済宗の了庵桂悟から曹洞宗の大空玄虎に帰依を変更したのかは、未だ不明である。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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