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自然地形を巧みに利用−五箇篠山城の攻防


五箇篠山城跡測量図

五箇篠山城跡測量図


 五箇篠山城(ごかささやまじょう)跡は、旧多気郡勢和村朝柄の、標高約140bの独立丘陵上に位置している。
 城の防備の中心は丘陵頂部で、東西にのびる尾根をいくつもの堀割で区切って郭(くるわ)とし、その周囲を帯(おび)郭(くるわ)が取り巻く構造である。反面、急斜面が続く中腹部には防備らしい遺構はほとんど見られず、自然地形を巧みに利用していたことがうかがえる。遺構の保存状態も良好で、県内屈指の山城跡である。
 三重県内には、実に多くの城跡が確認されているが、近世期の城郭を除けば、関連文献の残る城は、意外なほど少ない。五箇篠山城は、その数少ない城のひとつである。
 文献上の初見は、南北朝時代にさかのぼる。1343(康永2=興国4)年、五箇篠山城は、当時伊勢守護であった仁木(にっき)義(よし)長(なが)により攻撃されている。その後の史料がなく合戦の結果は不明であるが、前年には同じく仁木義長により、南朝方の拠点田丸城・坂内城が相次いで陥落しており、五箇篠山城も程なく落城したものと考えられる。なお、「五箇篠山城」の名称は後世の命名であり、当時は「五ヶ城」と呼ばれていた。
 ところで、五箇篠山城と言えば、1576(天正4)年織田信長によって大御所北畠具(とも)教(のり)をはじめ北畠一族衆の多くが誅殺された後、興福寺の別院東門院に入っていた具教の舎弟具(とも)親(ちか)が還俗し、旧臣を募って蜂起。天正10年の本能寺の変に際して立て籠もったことで知られている。
この、『勢州軍記』や『勢陽雑記』などに登場する五箇篠山城籠城戦に関する当時の文書が、信州真田家に伝来した『古文書鑑』に所収されている。その中のひとつ、小川新九郎長保宛ての土方彦三郎雄久書状によると、蜂起した北畠具親軍は大河内などに放火した後、「五ヶふる城」に立て籠もったと記されている。この合戦で小川長保は、自身も負傷する活躍を見せているが、3人の郎党を失っており、激戦であったことがしのばれる。
本能寺の変が起こったのは、天正10年6月2日。『勢州軍記』などによると、その年の冬に、備後国に逃れていた北畠具親が伊勢国に入り、五箇篠山城に籠城したとする。そして、城への攻撃は翌正月一日に始まり、2日間ほどの戦闘で落城したとある。年号を欠くが、先の土方雄久書状の日付正月6日は天正11年に当たると考えられ、『勢州軍記』の記述とも一致する。
南北朝時代以降の五箇篠山城については、史料がなく、よくわからない。ただ、当時の史料には北畠氏の被官として五箇景雅(ごかかげまさ)などの名が見えており、五箇篠山城を拠点とした在地領主であったと考えられる。なお、従来から五箇氏は五ヶ所氏や愛洲氏と同一視されてきたが、全くの別勢力である。
その五箇氏も文明5(1473)年頃、北畠氏に背いたとして誅伐され、代わって野呂氏が入ったようであるが、先の土方雄久書状に「五ヶふる城」とあるように、城自体は長く放棄されていたものと考えられる。
西端の郭には土塁が巡らされ、虎口(こぐち)には、小さいながらも桝形も設けられている。また、一部には石塁も使われていた。時代的に見て、これらの防備は、北畠具親の籠城に際して設けられたことは明らかである。わずかの間に、これだけの土木工事を伴う整備を行い、合戦に臨んだ当時の武士等の行動力に、今更ながら驚かされる。
現在、城跡には遊歩道が整備され、比較的容易に登ることができる。この機会に、是非足を運んでいただき、意外に狭い当時の山城を実感していただければと思う。

(県史編さんグループ 小林秀)

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