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中世期の様相うかがえ―二見安養寺跡出土の木製品


安養寺跡出土木製品(伊勢市教育委員会所蔵、県史編さんグループ撮影)(二見町文化財調査報告2より)

安養寺跡出土木製品(伊勢市教育委員会所蔵、県史編さんグループ撮影)(二見町文化財調査報告2より)


 1992(平成4)年、現在の伊勢市二見町大字溝口地内の、五十鈴川右岸に面した谷間が発掘調査された。発掘の契機は、団地造成事業に先立つものであった。
 現地は、山に囲まれた狭い谷間の一画であるが、そこから平安時代末期から鎌倉時代にかけての遺物や遺構が発見された。
 建物跡としては、礎石を用いた建物が3棟、地面を掘り込んで柱を立てる掘立柱建物2棟の、いずれも鎌倉時代前期のものと見られる計5棟が検出された。また、同時に多数の瓦や池跡なども出土しており、庭園を伴った寺院跡であることが明らかとなった。
 この遺跡でまず特筆されるのは、多量の木製品が出土したことである。有機質である木製品は、土中では通常残りにくいのであるが、この遺跡の立地場所が非常に多湿であることが幸いした。
用途不明なものが多数を占める中、箸やしゃもじ、下駄などの生活用品の多さが目につく。薄い円盤状の板部材は鍋の蓋か桶の底であろうか。また、鏑(かぶら)矢(や)を模したものや、矢の的状の板も出土し、これらは、当時、家の魔除けとして屋根裏に置かれたり、屋根などに掲げられたりしたもので、同時代の絵巻にも散見されるものである。
こうした遺物は、まさにこの場所で人々が日々生活していたことを示している。このほか、将棋の駒や教典を巻いたであろう軸なども出土している。
 この遺跡でのもう一つの特色は、墨書を伴う木製品の多さである。梵字や経の一部分のほかは、ほとんどが習書とみられ、同じ文字を幾度も重ね書きして練習していた様子がうかがえる。その中に「絹」や「疋」の文字があるのは、おそらく年貢に関する書類を作成するためのものであると考えられる。
 文字以外では、10〜15p前後の板材、あるいは角材に絵の描かれたものも何点か出土している。たとえば、非常に達筆で写実的な馬の絵の傍らに、人のようなものが稚拙な筆で書き入れられたものがあるが、馬とともに猿を飼っていた当時の習慣から、「人のようなもの」は猿であろうと考えられている。
写真に示したのは、褌姿の僧侶と思しき人物と蛙と考えられる絵が描かれたものである。どういう場面を描こうとしていたのかは想像の域を出ないが、僧侶の下、左側が太った蛙で、右側が痩せた蛙のようにも見え、年代的には全くかけ離れているものの、小林一茶の「痩せ蛙、負けるな一茶これにあり」という一句を連想させ、興味が尽きない。
このように、安養寺出土の木製品からは、さまざまな中世期の様相をうかがい知ることができる。県史編さん事業でもこれら木製品について赤外線等を用いて調査するなど、新たな発見につながるよう努めている。
ところで、この地は、漂泊の歌人西行が庵(いおり)を結んで、しばらく過ごした場所であるとされる候補地の一つである。西行の歌集『山家集』の詞書には、「高野山に住みうかれてのち、伊勢国二見浦の山寺に侍りける」とか、「内宮のかたはらなる山陰に、庵むすびて侍りける」とある。また、ほぼ同時期の鴨長明『伊勢記』にも、「西行法師住み侍りける安養山といふところ」とあり、状況的に発掘地に相当すると見て間違いないであろう。
西行が伊勢国で過ごしたのは、1180(治承4)年から1186(文治2)年の6年間のこととされている。この時期に相当する遺物は出土しているが、顕著な建物跡は検出されておらず、文字通り「庵」であったものと考えられ、それがやがて寺院としての体裁を整えていったのであろう。しかし、鎌倉時代末には早くも荒廃していたようで、1342(康永元)年にこの地を訪れた坂十仏の『伊勢太神宮参詣記』では、「西行上人住侍ける旧跡」である安養山の寺院を「哀れに心すごき古寺」と記している。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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