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鴨長明の記述巡る謎―三渡川地名考


三渡川河口付近

三渡川河口付近


 旧三雲町域を南北に分断していた三渡川(みわたりがわ)。その「三渡」の地名は、古くから当地を通過した人々の紀行文に見えている。例えば、1342(康永元)年に神宮参詣に訪れた坂(さか)十仏(じゅうぶつ)の『伊勢太神宮参詣記』に「三渡の浜にも付きぬ」とあるのをはじめ、1418(応永25)年、将軍足利義持(あしかがよしもち)の参宮に随行した花山院(かざんいん)親(ちか)長(なが)の記した『耕雲紀行(こううんきこう)』などをあげることができる。中でも、『方丈記(ほうじょうき)』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい)が1186(文治2)年に記したとされる『伊勢記』は、知りうる限りでは「三渡」地名の初見であり、潮の干満により渡り場所が三か所になったという、三渡川の地名由来に関わる記述のあることで知られている。
 それによると、まず最も潮が引いた時の渡り場所として、「こなたのさき」より「かなたのすさき」へとある。これは恐らく固有の地名ではなく、こちら側の岸の「崎」つまり突端から、向こう岸の「洲」や「崎」へ、という意味に解釈される。
 次に、半ば満ちた時は、「めぐりて松崎と云所」を渡るとある。記述の構成上、筆者の鴨長明は北から南に向かっていることから、「松崎」とは現在の松ヶ崎の地名に相当すると考えられる。しかし、問題は、最も潮が満ちた時の渡り場所についての記述である。
それには、二つの説がある。一つは「いはふち」とするもので、漢字を当てるなら「岩淵」であろう。そして、もうひとつが「いちは」である。これが「市場」であるならば、現在も市場庄の地名があり、渡り場所をある程度特定できる。しかし、これが「岩淵」であれば、相当する地名は周辺には確認できず、たちまち混乱することになる。
 どちらが正しいのかは、その原本があれば、瞬く間に解決する問題である。しかし、残念なことに鴨長明の『伊勢記』の原本は早くに失われ、伝来していないのである。こうした原本のない史料は、時代が古いほど多くなる。また、『伊勢記』の場合、全体を書写したものもなく、わずかに、いろいろな記録記事に部分引用された、いわゆる逸(いつ)文(ぶん)が知られているだけなのである。
 では、なぜこのような記述の混乱が起こったのであろうか。それは、問題の部分が仮名書きであったことに原因があると考えられる。
仮名文字には、その母体となった漢字があり、また同じ発音の仮名文字には複数の母体漢字が当てられる場合があった。例えば、「あ」であれば「安」「阿」「愛」「亜」などが、「い」では「以」「伊」「意」などがあり、当然、それぞれの母体漢字によって崩し字の形が異なっている。しかし、母体漢字の組み合わせによっては、異なる仮名文字なのによく似た崩し字となることも多いのである。筆者がしっかりと書き分けてくれればよいが、それぞれの書き癖もあり、それが誤読の原因となったりする。そこで、問題の部分を含む写本の一つを見ると、「いちは」の仮名文字の母体漢字には「以知盤」が使われていた。
 「以」は「いはふち」と「いちは」のいずれにも共通するとして、「ち」の母体漢字「知」の崩しは、「は」の母体漢字の一つ「者」の崩しに似ている。また「は」の別の母体漢字である「盤」の崩し字は、間延びすると「ふ」と「ち」のようにも見えるのである。事実、「いはふち」と解読された写本を見ると、「盤」の崩しは間延びし、ほとんど「ふち」とも読めるような状態であった。
 以上のことから、最も潮が満ちた時の渡り場は、「いちは」が正しく、「いはふち」は書写されてゆく過程で誤読された結果であると判断される。
このように、わずかな文字の形次第で、これだけの結果の差が出てしまうのである。特に、写本を史料として取り上げる時は、注意すべき問題である。後世の写本一冊だけで、すべての歴史を語ってしまわないよう気をつけたいものである。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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