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鮮明に浮かぶ象嵌模様−鉄刀柄頭が出土した前山1号墳


銀象嵌による亀甲繋鳳凰文が描かれた鉄刀柄頭(『三重県史』資料編考古1より)

銀象嵌による亀甲繋鳳凰文が描かれた鉄刀柄頭(『三重県史』資料編考古1より)


 今回は、銀象嵌(ぎんぞうがん)亀甲(きっこう)繋(つなぎ)鳳凰(ほうおう)文(もん)の施された鉄刀(てっとう)柄頭(つかがしら)が出土した前山1号墳(旧大山田村富岡)について紹介しよう。前山古墳群は、富岡集落周辺の丘陵に造られた古墳時代後期の群集墳のひとつで、服部川左岸の広域農道建設事業に先立って1984年(昭和59)に発掘調査された。
1号墳はやや長円形の円墳(長径約12m、墳丘の高さ約3m)で、埋葬施設は横穴式石室である。石室の玄門(出入り口)は集落を臨む東側に開いている。石室の天井部に架かる天井石は崩れ落ちていたが、内部の保存状態は比較的良好だった。主な出土遺物としては、臼歯(性別、死亡推定年齢不詳)、須惠器の杯・壺、滑石製の玉類、銅製の耳環(耳飾)、轡(くつわ)や杏葉(ぎょうよう)などの馬具類、鉄鏃、鉄刀・同柄頭・同鞘尻などがある。遺物の多くは石室の奥壁と玄門付近に集中していた。このような出土状況は、先に葬った人の遺骨や副葬品を掻き集めた後に新たに死者を追葬したことを物語っている。また、耳環が6個出土ことから少なくとも3人の埋葬が想定される。遺物の特徴などから、6世紀後半に古墳が造られ、7世紀初めまで追葬されていたものと考えられている。
当時、筆者はこの古墳の調査を担当していた。柄頭は、石室の床近くで発見したが、最初は鉄錆びの塊でどのようなものかわからなかった。しかし、よく見ると錆の中からわずかに銀線が覗いていたので、奈良県の元興寺文化財研究所でレントゲン撮影を依頼した。後日送られてきた写真を見ると、驚くほど鮮やかに象嵌模様が浮かび上がっていた。錆びを落として研ぎ出し、保存処理した後の状態がここに掲載した写真で、残存状態がたいへん良好な亀甲繋鳳凰文である。象嵌とは、金属板や陶磁器などの表面に細い溝を掘り、金線や銀線を埋め込んで文字や文様を描き出す大陸由来の技法のことである。亀甲文は、辺は三条、頂点は二重円で表現され、中に鳳凰が描かれている。鳳凰文はやや形状が崩れ、両翼は頭頂部で合わせた形となる。仔細を観察すると、顔は左向きで半月状の嘴(くちばし)が認められる。柄頭の長さは7.9p。鞘尻にも同様な銀象嵌亀甲繋鳳凰文が描かれていた。県内の古墳から出土した象嵌製品は9例にすぎず、たいへん貴重なものである。
木津川とその支流によって形成された上野盆地は飛鳥や奈良とも近く、早くから中央政権の影響が強く現れている。御墓山古墳、石山古墳、馬塚古墳など全長100mを超す大型前方後円墳が4世紀代より築かれることから在地首長層の伸張がうかがえよう。服部川流域の旧大山田村でも、寺垣内古墳、荒木車塚古墳、寺音寺古墳、鳴塚古墳などの前方後円墳があり、その周辺の丘陵には古墳時代後期の群集墳が数多く築かれている。前山1号墳はどこにでもありそうな小さい古墳であるが副葬品には驚くべきものがあり、改めてこの地域の古墳時代文化の豊かさを知ることができた。

(県史編さんグループ 田中喜久雄)

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