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広域交流の証しが出土―縄文時代早期の津市・西出遺跡


当時の発掘調査の様子

当時の発掘調査の様子


 20年ほど前になるが、それまで縄文時代に遡る遺跡はないとされてきた雲出川支流の長野川流域で、縄文時代早期の遺跡が発見された。現在の津市美里町の西出遺跡である。既に「三重県史」資料編(考古1)でも取り上げているが、今回は発見の経緯や時代背景などにも触れながら、西出遺跡の発見の意義について紹介してみよう。
 遺跡は、旧美里村役場前を通る県道(現国道163号線)の南側一帯の水田や畑一帯に広がっている。1989年(平成元年)度の県営ほ場整備事業に先立つ分布調査で発見されたもので、遺跡範囲約7,000uのうち、工事の関係で破壊が免れない部分約1,000uについて県の埋蔵文化財センターが発掘調査を実施した。まず、耕作土を取り除いたところ、今から700年ほど前にあたる鎌倉時代の掘立柱建物跡2棟と、その時代の壺や皿など土器片が見つかった。鎌倉時代としては、ごく普通の村の様相と考えられる。調査中、縄文時代の土器片が多数混じって出土していたので、さらに30p〜40p掘り下げたところ、縄文時代早期の竪穴住居跡が見つかった。発見当時、美里村で初めて縄文時代の遺跡が明らかになったとして大きく報道された。
 住居跡は20棟以上あり、大きさは3mほどの円形もしくは長円形で、地面を10pほど掘り込んで作ってあり、柱穴の痕跡も残っていた。おそらく3〜4棟程度でグループをつくって生活していたのであろう。縄文土器は破片ばかりだったが、6,000点ほど出土した。土器片の表面には、文様を刻んだ棒状の工具を押し当てたり回転させたりして文様を付けてあった。これを考古学的には「押型(おしがた)文(もん)土器」という。さらに詳しく分析したところ、亀山市大鼻(おおばな)遺跡、奈良県山添村大川(おおこ)遺跡、大阪府交野市神宮寺(じんぐうじ)遺跡から出土した土器の文様とたいへん似たものであることが分かった。戦後、縄文土器の研究も大幅に進歩し、このような文様なら、いつ頃のもので、破片だけでもおおよその器形が分かり、どの地方で生産・流通したかなどが分かるようになってきた。この編年学的研究に照らし合わせれば、西出遺跡は今から7,000年〜8,000年前の縄文時代早期のものであることが分かる。そのうち甕形の土器を推定復元すると、高さ40p程度の底が尖った砲弾型をした形となる。これを「尖底(せんてい)土器」といい、まだ平底の土器が出現する以前の古い形態のものである。鏃(やじり)などの石器類はごく少量だったが、大阪・奈良県境の二上山(にじょうざん)産出のサヌカイト製のものが含まれていることも分かっている。
 地図で見ると、西出遺跡と神宮寺遺跡のある交野市との間は直線距離で約60q、二上山とは同じく約60qの距離がある。おそらく木津川から服部川流域を伝って美里村に達したものと推測される。現在の我々には想像のつきにくい長い距離であるが、縄文時代の人々は既に大きな交流圏をもっていた。これは、西出遺跡の縄文人に限らず、全国的な傾向で、たとえば糸魚川(いといがわ)(新潟県)産の翡翠(ひすい)、和田峠(長野県)産の黒曜石(こくようせき)などは100qを優に超す交易範囲をもっているから、特に驚くべき距離ではない。
縄文時代は、今から12,000年前に始まったといわれている。洞窟や岩陰を住処としていた人々が、ようやく平地に出て竪穴住居を築き、狩猟・採集の生活をしはじめた時代に、長野 川流域でも人々の生活の痕跡があることがわかったのは大きな成果であり、「三重県史」でも、西出遺跡出土の土器は近畿地方の早期押型文土器研究に大きな役割を果たしたと位置付けている。今後、さらに周辺での新たな発見や調査研究の深まりが待たれる。

(三重県史編さんグループ 田中喜久雄)

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