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『伊勢参宮名所図会』の習俗−白子観音寺氏子の信仰


「伊勢参宮名所図会」に描かれた子安観音寺

「伊勢参宮名所図会」に描かれた子安観音寺


 江戸時代になると、民衆の伊勢神宮への参拝が全国的に普及した。多くの村では参宮を目的とした仲間集団(講)をつくり、毎年一村総出や代理人を立てての参拝が行われた。
 こうした状況のもとで、『伊勢参宮名所図会』(以下、参宮図会)が寛政9(1797)年に刊行された。参宮道中の村々の案内や道程だけでなく、名所旧跡やその場所に伝わる伝承奇談、各地の寺社祭礼や芸能、物産の紹介を、所々に挿し絵や古歌を交えて平易な文章で綴り、読み手の目を楽しませてくれるものである。
 その中には、当時の人々の習俗慣習が記述されている場合がある。参宮図会の編者が奇異に感じたのであろうが、ここに、その一つをあげてみよう。
 「白子 ……寺家村…此郷の習俗(ならわし)に妊娠のおびをせずとも難産なし」
 これは、参宮図会に記された現鈴鹿市の白子寺家地域での妊娠時の腹帯にまつわる習俗の記述である。現在、妊娠5ヶ月目の戌の日を選んで腹帯を結ぶという人や地域が多い。江戸時代の三重県域でも、この日に産婆を迎えて帯を結んでもらい、祝宴を催したり、餅や赤飯を近隣朋友に配る「帯祝い」が行われたらしい。だが、寺家ではこれを行わなかったというのだ。このことは、参宮図会よりも150年近く前に成立した『勢陽雑記』にも、「いかなる謂(いわれ)にか、此寺家村に懐妊の女腹帯せずとなり。古今難産なしと也」と見える。既に350年の昔からそうした習俗が存在したことになる。
 また、これが単に言い伝えでなかったことを伝える史料もある。『伊勢国白子領風俗問状答』という史料だ。これは、参宮図会とほぼ同時期に記された習俗アンケートの回答書ともいうべきもので、当時行われていた白子の習俗が記録されていると考えられている。白子の腹帯の習俗については、次のように記されている。
 「婦の親より紅白の帯、強飯等贈る也。さて取上婆々来たりて帯を結び初むる也。……。寺家村観音の氏子は妊婦着帯せず。昔より今にしかりとなん」
 すなわち、「寺家村観音の氏子」、つまり白子山観音寺の氏子のみが着帯習俗を行わなかったというのである。白子山観音寺は俗に「子安観音」とも称され、安産祈願詣の名所として世に知られていた。子安観音を信仰し、その加護を直に受けた氏子たちにとって、腹帯をしなかったことが観音に対する信仰心の表現だったのであろうか。
 ただ、現在は寺家地域でも妊娠時には腹帯を巻く。いつ頃から定着したかは不明であるが、それを調べるのも地域の歴史であり、民俗学でもある。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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