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多彩な夜泣き封じ−語り継がれる育児習俗


三重の民俗事象も多く紹介された『風俗画報』

三重の民俗事象も多く紹介された『風俗画報』


 新聞やテレビなどで、乳幼児虐待死の事件がたびたび報道される。その都度、同じような年齢の子を持つ親として胸が痛くなる。虐待の理由には、なかなか泣き止まない赤ん坊に手を焼いたというものも見られる。我が家でも、夜中に起こされ、泣きじゃくる我が子にどうしようもなくイライラすることも事実ある。
 ならば、朝早くから深夜まで家事や育児を課された、ひと昔前の女性にとって、貴重な睡眠時間を奪う赤ん坊の夜泣きは、現代以上に切実な問題だったであろう。そうしたとき、彼女らは、その土地に伝わる呪(まじな)いなどにすがり実行し、また、それを次の世代に伝えた。そこで、今日は三重県各地に伝わる夜泣き封じの呪いや禁忌の一部を紹介しよう。
 江戸時代後期に桑名藩の下級武士が書いた『桑名柏崎日記』は、夜泣きの呪いとして、アワビ貝を屋根に上げ、「小夜中山(さよのなかやま)の夜泣石(現静岡県掛川市の夜泣石)のそばの土をもらって水でかき混ぜて飲ませていたと伝えている。
 1900年代初頭に発行された民俗雑誌『風俗画報』には、当時四日市に伝わる禁忌として、「夜中におしめを戸外に干すと小児が夜泣きする」というのを紹介している。
 1934(昭和9)年に恩賜財団母子愛育会が実施した「妊娠、出産、育児に関する民俗資料調査」でも、これと同じことが伊賀地域であげられている。どうも、広い範囲で言われたらしいが、これ以外の伊賀地域での夜泣き封じの呪いとして、「夜中、垣の竹を取り、これに火を付けて子供に見せる」、「鶏の絵を描いて子供のそばに貼っておく」の2つも記されている。
 また、1970年頃に県教育委員会が行った伊賀西部・東部山村習俗調査は、「洗濯物を夜に干すと、その子が夜泣きする」ということを収録し、竹を用いる呪いとして「藪の笹をゆする」とか、助産婦のところへ行き、「北向きの7葉の笹で、頭を撫でてもらう」というものがあったという。なお、鶏の絵に関しては、2002年発行の『上野市史』に、諏訪地区で「鶏の絵を紙に描き、逆さ向きにオクドさん(竈)に貼る」という呪いがあったことを記録している。さらに、伊賀地域の呪いとして、「鍋つかみをもってクドサン(竈)を3回まわる」、「白狐、昼は泣いても夜は泣かぬと言って庚申に拝む」、「四辻の石橋の下に灯明をあげる」などもあったらしい。
 これらと類似した呪いは、他の地域でも報告されている。
 『四日市市史』(1995年)は水沢地区で「画用紙に雄鶏の絵を描いて、子供の蒲団の下に敷く」ことを、『多度町史』(2000年)は肱江地区で「神明社跡の笹を煎じて飲ませる」ことを記す。
 次に、県南部に目を移すと、1970年頃の県教育委員会の調査において、南勢町相賀で「橋の欄干を削って寝床の下に敷く」、「猿沢の池のほとりに泣く猿に、昼は来るとも夜はこんこんと書き、寝間の下に敷く」、熊野市域では「丸木橋を削って煎じて飲ます」、「一本橋から削り取ったものを燃やして見せる」という呪いが存在したと伝えている。
 これらは、ごく一部の分析であるが、(1)竹または笹を用いる。(2)橋の木を削る。(3)火に関わる行為や場所が含まれる。(4)モノを飲ませる。(5)鶏の絵を描く。(6)動物が登場する呪文を唱える。(7)寝床の下に敷く、など共通の要素がある。それらが複雑に組み合わさって、地域でそれぞれ異なった呪いを形成していったのである。
 こうした呪いには、もちろん科学的な根拠はない。しかし、長い歴史の間に様々な呪いや禁忌が作り出され、人々がそれを語り伝え続けたのは、それほど子育てが重労働であったということを物語っている。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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