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偏見を助長「無らい県運動」−「神都」と隔離推進


長島愛生園医官の検診記を収録した『黎明』表紙

長島愛生園医官の検診記を収録した『黎明』表紙


 3月1日、「ハンセン病問題に関する検証会議」が最終報告書を厚生大臣に提出した。ハンセン病問題については、2001年5月に熊本地裁が「過度にその人権を制限した隔離政策の違憲性は明らかである」と判決し、その経緯は今更言うまでもないが、2日の新聞各紙は大きく紙面を割いて最終報告書の要旨を掲載した。その中で、『毎日新聞』は第2次大戦前後の「無らい県運動」を取り上げ、これによって「偏見・差別が助長され」、「実態の解明」が必要という小見出しを付した。それでは、三重県の「無らい県運動」の状況を見てみよう。
 1907(明治40)年に法律「癩予防ニ関スル件」が成立し、それ以降患者の隔離が行われ、各道府県は連合で全国に5ケ所の療養所を設置した。三重県は大阪府・兵庫県など11府県とともに第3区域に属し、大阪府西成区の海岸に「外島保養院」を建設した。三重県からの当初入所は3名で、やがてその数は若干増加していったものの、この時期にはまだ「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキ」患者が療養所に入所するのみであった。
 しかし、31(昭和6)年に「癩予防法」として法律が改正されると、「病毒伝播ノ虞(おそれ)アルモノ」はすべて入所の対象となった。そのため、同年瀬戸内海に最初の国立療養所・長島愛生園ができ、癩予防協会という全国組織も設立された。その発起人会には三重県からも多くの著名人が参加し、各県で「無らい県運動」が展開されていった。「無らい県」とは、県内からハンセン病患者の放浪・在宅をなくすことで、その言葉は29年に愛知県で初めて使われたという。三重県での運動の開始時期は明確でないが、既に31年には「三重県癩病根絶期成同盟会」や「神都癩病根絶期成同盟会」が存在し、リーフレットの配布、募金活動などを行っていたらしい。と言うのも、これらの会の資料が残っているわけでない。長島愛生園発行の記念誌『長島開拓』に「神都の癩運動」という職員の随筆が収録されていて、それから状況がうかがえるだけである。
 戦前、長島愛生園の職員や医官は、たびたび三重県を訪れ療養所への勧誘や検診を行い、その内容を雑誌『愛生』や三重県社会事業協会の機関誌に随筆風に記述した。当時の「癩予防法秘密厳守の精神」から人名や詳しい地名は明記してないが、三重県の患者がどのようにして療養所に送られていったかを知ることができる。
 一つの事例として、40年の宇治山田市(現伊勢市)内と考えられる地域での検診記をあげてみると、医官は30歳のハンセン病患者に対して「有難いお社のある県内のこと、是非貴方の御自覚に訴えたい。他人の迷惑にならないことが第一です」と療養所入所を進めた。そして、患者も「百三十万県民のため祖国浄化の捨て石として島の生活に同意してくれた。……神都浄化、祖国浄化の魁(さきがけ)として……次第に患家に理解され出した」と続く。戦時体制下、伊勢神宮がある三重県では「聖地三重」とか「神都浄化」が叫ばれ、その一番にハンセン病患者の隔離政策が推進されていった。全く患者の治療は二の次と言えるものであった。
 さらに、41年には癩予防協会三重県支部が設立され、記念に同様の検診記が『黎明』という本にまとめられたが、その序文に「県当局の英断は……次々に病友を愛生園に送り、無癩県三重の実は正に明日に期待し得べき迄になった」と記している。すなわち、三重県の「無らい県運動」が強力に進められたことを物語っているのである。
 さらに、これらの検診記をていねいに読むと、伊賀地域に国立療養所建設計画があったことや雲出川の河畔に「癩テント村」が存在したことなどもわかってきた。現在、三重県のハンセン病問題資料集発行が計画されており、こうした資料も掲載できればと思っている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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