トップページ  > 発見!三重の歴史 > 銅版画普及に情熱注ぎ−日本洋画商の草分け西田半峰

銅版画普及に情熱注ぎ−日本洋画商の草分け西田半峰


「葉書絵」白山町・谷美也氏所蔵)

「葉書絵」白山町・谷美也氏所蔵)


 西田半峰(にしだ・はんぽう)という三重県出身の版画家がいた。西田の死後百ケ日に東京で開かれた追悼会に武者小路実篤が文を寄せているが、それには「気持ちのいい人柄」、「何しろ珍しい男」で、「もっと長生きして益々奇人振りを発揮して」もらいたかったと述べられている。少し風変わりな、しかし魅力的な人物であった。
 本名「武雄」。1894(明治27)年、一志郡七栗村大字森(現久居市森町)に生まれ、6歳のときに横浜にいた母親の従兄弟から養子に迎えられる。以後、1945(昭和20)年の戦災で郷里に疎開するまでを関東で過ごした。
 戦後、絵や狂歌などを書いた葉書を多く残している。この葉書絵は、なかなか人気があって、所有している方も多く、県内では画家として知られている。しかし、葉書絵も、実は彼のごく一部の、しかも晩年の業績であって、戦前の彼は版画家としてエッチング(銅版画)の普及に情熱を注ぎ、また、日本最初の洋画商として活躍し、日本近代美術史の在野研究者としても知られるなど、多才な人物である。
 養子先で幸福な少年時代を過ごした西田は、横浜商業学校に入学。在学中に絵の勉強を始め、第8回文部省美術展覧会(文展)に水彩画「倉入れ」が入選する。当時、文展の権威はかなりのもので、当然、本人は美術学校進学を希望した。ところが、養父の反対もあって実現せず、卒業後は本郷洋画研究所に入り、自活しながら絵の勉強を続けることとなった。この頃にエッチングを知り、その魅力に惹かれて研究を思い立つ。当時は知る人も数少なく、道具も外国から取り寄せねばならなかった。そうした様々な苦労をしながら、エッチングを試作していった。
 そして、1923(大正12)年の関東大震災後、西田はエッチング普及のために「室内社画堂」を開く。画家の個展を積極的に開催し、写生旅行や展覧会準備に必要な資金を貸し出す機関をつくるなど、今日の画商の機能をほとんど実践した。そのため、西田は日本洋画商の草分けと言われる。
 また、全国各地を巡回してエッチングの講習会を開催し、1932年には雑誌『エッチング』を創刊した。この雑誌は、最盛期に2,500部を印刷し、11年間で125冊が発行され、エッチングの普及拡大に大きく影響した。こうした西田の活動に刺激されて、多くの銅版画作家が育っていったのである。ただ、時代が次第に戦争へと移り、大政翼賛会の指示で日本版画奉公会が結成された。「半峰」という名前は、日本版画奉公会の略称である「版奉」をもじったものであるが、雑誌『エッチング』も『日本版画』と改題する。やがて、それも廃刊となり、室内社画堂も空襲によって失われてしまった。
 疎開先の郷里三重で終戦を迎えた西田は、以後知人の東京への招きにも応じず、半ば隠遁するような生活を送った。そうした中で、1952年1月1日からは50,000枚を目標に葉書絵を書き始め、1961年7月に病に倒れるまで26,744枚が制作された。同月26日に67歳で世を去るが、最後の日付は7月23日付けで、まさに亡くなる直前まで葉書絵を書き続けている。
 西田半峰の生涯は、戦争によって大きく変化した。戦前の華々しい活動に比べると、戦後の様子はあまりにも寂しいと言わざるを得ない。しかし、エッチングをこれほどまでにわが国に普及させたのは、彼の情熱であったことに間違いはない。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る