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名声博すも短命に終わる−農家の副業 食用蛙養殖


食用蛙(ウシガエル)

食用蛙(ウシガエル)


 戦前の三重県の産業を紹介する資料の中に、米や製糸・伊勢表・伊勢沢庵に交じって「米国種食用蛙」というものあった。馴染みがなく、少し異様な感じがしたので『飲食事典』を引いてみた。食用蛙の養殖事業は大正時代末期から第2次大戦前及び戦後にかけて全国で行われたが、「もっとも力コブをいれたのは三重県で、養殖組合などをつくり」、東京にも進出して販売所を設けたという。そろそろ蛙も目覚める季節となったので、今日は三重県の食用蛙事情をお話しよう。
 みなさんは、食用蛙をウシガエルという名称で一般に耳にしているであろう。このウシガエルは、その鳴き声が牛の鳴き声に聞こえることから付けられたものだが、もともと日本には棲息していない蛙である。 
 日本にはじめて食用蛙がやってきたのは大正6(1917)年で、今後の食糧確保と農家の副業に有益であるとの考えから、東京帝国大学渡瀬庄三郎博士のもと雄10匹、雌4匹が持ち込まれた。これが産卵に成功し、数百匹の幼蛙を得たという。このうち雌雄2対がまず滋賀県水産試験場に放養され、産卵孵化したオタマジャクシ200匹が大正12年年6月28日に、三重県水産試験場にやってきた。
 試験は、多度村戸津(現多度町)の伊藤彦三郎氏に委託して行われた。生きた魚や昆虫を食す蛙に与える餌料の確保は養殖上最も難題であった。2個の夜間電灯で昆虫をおびき寄せ、蛙に補食させた。虫が少ないときは雑魚を投与した。その後、水産試験場で死んだ魚や蚕さなぎを餌とする方法が考案されると、飼育を希望する農家が多く現れた。そこで、飼養を希望する農家に配布を開始する。配布オタマジャクシ数は大正14年に4万2000匹、15年に9万8000匹、昭和2年に25万2000匹で、急速に県内に広まったことがわかる。こうした中、各地に副業養蛙組合(ようあくみあい)が誕生し、子蛙の生産・購入・飼養委託・販売が行われた。気になる利益は、成蛙252貫(3150匹)で630円、ここからオタマジャクシの仕入代、餌料代を差し引いて、352円余の利益があるとされた。昭和5(1930)年のことで、これを当時の米の生産額から換算すると、食用蛙36匹と米1俵の売上げ代金がほぼ同じとなる。
 また、蛙料理の宣伝も養蛙組合の大切な業務の一つであった。この時期各地で試食会が開かれている。当時はまだスッポン料理のような嗜好料理の性格が強かったため、大衆料理として定着を図るため、多度村はじめ県内7カ所の料理屋に格安で蛙を卸すことが始められた。
 しかし、蛙食の習慣は魚介類や鶏肉に事欠かなかった日本では、政府の思惑と裏腹に伸びなかったのと、養殖管理が不完全だったせいもあって蛙の逃亡が後を断たず、養殖から身を引く業者が多かった。
 そうしたうちに、食用蛙は県内の各地の池や沼で自然繁殖した。戦後になって、一時アメリカ向け輸出のため蛙の需要が増え、捕獲業者も多く出現したが、時代とともに捕獲業者も姿を消した。食用蛙にとって、一番の天敵がいなくなったのである。結果、持ち前の生命力と繁殖力で増加し続けた。
 「ウシガエルは気持ち悪い」と疎まれる。しかし、彼らが棲息する原因は以上のような歴史的事情があるのだ。彼らに非はない。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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