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海外でも特許取り、供給−小林政太郎の柔軟オブラート


『三重県案内』(1922年発行)に掲載された小林柔軟オブラート製造所の広告

『三重県案内』(1922年発行)に掲載された小林柔軟オブラート製造所の広告


 三重県近代史における3大実業家として、真珠の御木本幸吉、電気の田中善助、そしてオブラートの小林政太郎をあげる人がいる。「ミキモト・パール」の名を世界にとどろかせた御木本幸吉は誰もがよく知っていて、今更説明を要しないであろう。また、伊賀上野の田中善助も当欄第65回でいち早く風景保護を訴えた人として取り上げたが、1905(明治38)年の巖倉水電株式会社をはじめ、伊和水電・近江水電株式会社などの設立に尽力し、「電気の善助さん」として当時の大阪毎日新聞が記事を連載した実業家である。後年には伊賀鉄道会社社長や伊賀上野銀行頭取なども務め、彼の事績をあげれば限りがない。
 もう一人の小林政太郎は、柔軟オブラートを発明し、日本だけでなく、世界にその商品を供給した。今やオブラートと言っても知らない人がいるかもしれない。ジャガイモなどのデンプンで作られた薄い紙状のもので、苦い粉薬を包んで飲むのに使われ、飴菓子の包装用にもなった。オブラートは19世紀後半になって日本に輸入されたが、その頃は硬質オブラート(せんべいオブラート)で、水の入った小皿に浮かべてその上に粉薬を盛り、軟らかくなるのを待って水と一緒に飲んだらしい。もっと簡単に飲めないかということから、透明で薄く、粉薬を包むのに適した柔軟オブラードを小林政太郎が苦心の末に発明した。1902年のことである。
 小林政太郎は、1872年に度会郡田丸(現玉城町)の医師小林藤十郎の長男として生まれた。いみじくも先週の当欄、四日市「小林新田」開発者の名も小林藤十郎、偶然だが、政太郎は医師をめざし83年に創立された東京の医学校・済生学舎に学んだ。弱冠18歳にして医師開業試験に合格し、郷里田丸に帰り医師となった。そして、1902年、前述したように柔軟オブラートを発明し、特許を得るとともに合名会社小林柔軟オブラード製造所を設立してその製造を開始した。また、日本のほかイギリス・アメリカ・ドイツ・フランスでも特許をとり、04年のセントルイス開催の万国博覧会で銅牌、10年ロンドンの日英博覧会で金牌などの受賞もあって、小林政太郎の発明した柔軟オブラードが世界中に広がった。
 11年度に農商務省商務局員が出張して三重県など数県の「重要商品ノ状況」を調査した『各府県重要商品調査報告』には、特に「柔軟オブラート」の項を設け、「創業以来一般ノ好評ヲ博シ、逐年其需要ヲ増加シ」と記す。さらに、10年の産額は「約七十万個(一個ハ百枚乃至二百枚入リ)ニ達シ、殆ント注文ニ忙殺セラルノ盛況ナリ」とし、工員(特に女子)が97人いたことや販売・運搬方法も報告している。このように需要が続き、13(大正2)年には「自動汽力製造装置」を考案、特許を得て製造能力を増大し、工場の拡幅なども行う一方、品質についても改良を重ねていった。
 しかしながら、1920年代には他にもオブラートの製法を種々研究開発する事業者が現れた。小林製造所の製法は寒天とデンプンを混合していたが、デンプンだけで製造できるようにもなった。こうした競争会社の出現などによって、小林製造所の生産も35(昭和10)年頃までで、その後は工場の閉鎖に至ったという(『ふるさと玉城の歴史』)。
 インターネットで「オブラートの歴史」を検索すると、「三重の医師小林政太郎が発見、商品化」と小林が登場する。ここで柔軟オブラート発明を「発見!」と表現するまでもない。ただ、『各府県重要商品調査報告』は、小林柔軟オブラート製造所の詳しい情報を記載しているものの、今まで知られておらず、今回紹介してみた。県史編さん事業も今年度から近代史の通史編に取り掛かる。きめ細かな県史にするためには、こうした様々な資料に当たって、三重県関係の記事を地道に拾い集めていくことが大切だと思う。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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