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テングサ求めて海女の出稼ぎ−志摩から北海道利尻・礼文へ


利尻・礼文島の位置図

利尻・礼文島の位置図


 七、八年前、県史編さん資料の調査中、東京国立博物館で北海道の利尻町立博物館のNさんと出会った。Nさんも町史編さんのため来られており、夕食を共にすることになった。酒も入り、北海道と三重県の縁の話に花が咲いた。
 「北海道の名付け親」松浦武四郎は一志郡出身。北海道開拓の先駆者で間宮林蔵の師、村上島之允(しまのじょう)も現在の伊勢市生まれ。それに、明治期の木曽川改修に伴う木曽岬・長島の集団移住や津岩田組の富良野原野開拓なども有名。ただ、これらはいずれも北海道全体や本島のことであり、更に話を進めるうちに、利尻島や礼文島と三重県は「海女」で結び付くことがわかった。明治時代以降、志摩の海女が利尻島や礼文島に渡り、テングサを採っていたというのである。そんなに遠くまでという驚きとともに、たとえ夏とは言え、潜るのは冷たかっただろうなと思った。
 そして、かつて志摩の越賀村文書を調査したとき、海女の北海道への出稼ぎや朝鮮への渡航願を見たような気がしたので、調べて資料を送ることをNさんに約束した。
 三重県に帰り、早速調べてみたところ、やはり1893(明治25)年の『雑書編』という簿冊に最初の北海道への出稼ぎ文書が綴られていた。既に一部は元三重大学教授の故中田四朗氏が雑誌に取り上げられているものの、一般にはあまり知られていないので、ここに紹介してみよう。
 最初の文書は、3月22日付けで越賀村の住民が「寄留出稼」の是非を三重県知事に伺ったものである。しかし、三重県庁では判断がつかず、北海道庁へ照会した。北海道庁は「満足スルカ如キ漁場ハ得難キ」とか「石花菜(てんぐさ)ノ採取ハ……多数出荷者ノ来テ採取スルニ足ラス」としながらも、「出稼人ニハ概ネ制限ナキ」として受入れを了承した。当初は男10人、海女27人が後志(しりべし)地域や利尻・礼文島に寄留する予定であったが、結局は男4人、海女16人が礼文島に寄留することになり、5月30日に出発した。越賀村では、村をあげて前々日に氏神社で臨時祭典を催し、無事を祈った。こうして志摩から北海道への海女の出稼ぎが始まったのである
 利尻島や礼文島は、コンブをはじめ様々な海産物で有名であるが、寒天の原料となるテングサの質も良く、明治期には多くの市場に出された。採取した海女の収入も多く、1906年の『小樽新聞』によれば、1人100円近くにもなったらしい。当時の製糸工女の年給と同じである。テングサの採取期は、コンブの主要部の採取が終わったあとの8月1日から9月中頃までで、その時期には多数の海女が利尻島や礼文島に集まった。明治末期からテングサ採取が本格化すると、特に産出の多かった利尻島の仙法志(せんほうし)村には100人ほどの海女がいたという。志摩の海女たちが中心であり、そうした出稼ぎは1920年代、昭和初期まで続いた。この間には、利尻島に定着した家族や地元の男性と結婚した海女もかなりいたようである
 2001(平成13)年正月、NHK北海道局では「ルーツの旅、道産子のふるさと」という特集番組の第2回目に「海女が渡った島(利尻〜志摩)」を企画した。Nさんの紹介で撮影についての相談を受け、越賀村文書に詳しい資料調査員に口添えした。後日ビデオが送られてきたが、そこには、文書のほか、祖母が志摩の海女であったという家族が描かれ、志摩の「きんこ芋」が利尻島に送られて、今も交流の続くことを伝えていた。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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