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貝殻と藍がとりもつ三重と徳島−桑名の蛤など染色に再利用


貝灰の製造法や生産高等が書かれた「明治十四年第二回内国勧業博覧会解説」(左)と「明治十五年水産博覧会解説書」(右)

貝灰の製造法や生産高等が書かれた「明治十四年第二回内国勧業博覧会解説」(左)と「明治十五年水産博覧会解説書」(右)


 江戸時代、桑名の海では蛤(はまぐり)が大量に採れた。「桑名蛤」という名称も生まれた。現桑名市今一色には蛤売りを生業とする商人が多くいた、と江戸時代に成立した『久波奈(くわな)名所図会』にある。それを溜醤油で煮染めたものが名産「時雨蛤」である。このほか、桑名では蜆(しじみ)や牡蠣(カキ)も多く産した。
 こうした貝類からむき身を取り除いたあとに残る貝殻はどのように再利用したのか、今回は、貝の多産地域、桑名で栄えた貝殻リユーズ(再利用)の話をしよう。
 貝灰(貝焼灰)という言葉を御存知だろうか。蛤・牡蠣などの貝殻を焼いて作った灰で、現在でも壁塗りに使う漆喰(しっくい)の材料として用いられているという。『久波奈名所図会』には、貝灰について小貝須新田で製造され、家や蔵の白壁に適したことから、大坂をはじめ各地に輸送販売されたと記されている。
 三重県庁文書の中に残る『明治十四年 第二回内国勧業博覧会解説』と『同十五年 水産博覧会解説書』には、当時桑名郡小貝須村の高松源兵衛が自宅で製造した貝灰を出品したときの解説書がある。これによれば、原料は主に蜆を用いているが、開業の沿革の欄には、百年ほど前、祖先高松源兵衛が発明したこと、かつては大坂あたりにも多く運搬していたことが記述され、『久波奈名所図会』の内容を裏付けるものとなっている。しかし、十二,三年前から輸送費がかさみ価格が高くなり、その後需要が減ったとも記されている。<BR>高松源兵衛が生産した貝灰の産出高は、明治14年約4000俵(1俵3斗入り)で、その約74パーセントに当たる2,950俵が徳島県(阿波国)へ移出されていた。
 なぜ徳島県か。江戸時代の随筆などに「阿波の藍玉や」と記されるほど徳島県は染料となる藍の本場だからである。現在も徳島では藍が栽培されているという。解説書の「効用」欄の冒頭には「藍色ノ宜シカラサルヲ美ニシ」とあり、貝灰は藍染めに不可欠なものであった。明治期の三重県と徳島県の間には、貝殻と藍がとりもつ密接な関係があったのである。今でも藍染めの際には、水溶性でない青藍を可溶化させ、布に染色する工程で貝灰は利用されているらしい。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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