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日本最古級のデパート−参宮客に人気「山田勧工場」


「三重県下山田勧工場概則」(多気町五桂区所蔵)

「三重県下山田勧工場概則」(多気町五桂区所蔵)


 県史編さん事業を開始してまもない頃、「ふるさと村」で知られる多気町五桂区の資料群を拝見し、その中から9×14cmに折り畳んだ明治13(1880)年3月の「三重県下山田勸工場概則」という一枚の印刷物を発見した。最初は、「缶」の旧字「罐」の誤植で、缶製造工場の規則かと思った。しかし、よく見ると、「勧工場ハ…製産スル各種ノ物品ヲ一場ニ蒐集シ売買ヲ主トシ」とあった。明治期の勧業施策の一つで、とりあえず資料を複写させていただいたが、その後は勧工場の資料にめぐりあうこともなかった。最近になって、再び五桂区の資料調査を行うというので、気になっていた勧工場のことを少し調べてみた。
 「勧工場」は、「かんこうば」と読むらしい。『国史大辞典』の項目にも掲げられていて、「明治・大正期に…種々の商品を一つの建物内に陳列して販売…デパートの先駆形態」であるという。明治10年に東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の出品物を販売処分したのが始まりで、全国的には明治20〜30年に設立が相次いだとある。東京の「勧工場」に対して、大阪では「勧商場(かんしょうば)」と呼ばれたようだが、大阪でも明治17、18年頃心斎橋に開設されたのが最初と書かれている。この山田勧工場は明治13年4月1日に開設されており、全国的にかなり早い時期の設立ということになる。
 勧工場の設置場所は外宮に近い山田岡本町(現伊勢市)で、当時の新聞にも「勧工場は…旅人などの土産を求めるに…不当の代価を貪らるゝ事もなく、且一場にて諸品が購求できる故、誠に便利」とあり、参宮客を見越して設置したものである。また、発起人は旧御師であった山田大路(ようだおおじ)元安氏をはじめ「該地屈指の人々」と記されている。
 勧工場には、動植物や腐敗の恐れのある食物等を除いて、どんな物品でも出品できた。明治17年の県庁文書の中に、大阪府民と山田勧工場へ出品した綿敷物についてのやりとりがあり、広く出品があったこともうかがえる。さらに、祝祭日以外は毎日午前8時から午後5時まで開場していたので、出品物を直接持参し、名札を付けて陳列すれば販売対象となった。出品者が厳選しただけに粗悪品が少なく、販売手数料がわずか3%と品質相当の購入ができたので、評判が良かった。ちなみに、開設直後の13年4月には8176人の入場者と1090円の売上げがあった(『三重県勧業月報』)。その頃の米相場は1石およそ10円で、結構繁盛したわけである。
 ところが、この勧工場の建物構造やいつまで存続したのかはわからない。県庁文書の中に他の勧業関係文書とともに勧工場の文書が綴られている年次があり、表紙にも「勧工場」と表記されているが、明治18年までである。開設6年で山田勧工場が幕を閉じたのか、同年12月に津の公園に物産陳列場が開設されて、それに関連して閉場となったのか、いずれにしても、明確な資料の発見を待ちたい。
 このように、発見された1枚の資料をきっかけとして、明治前期の勧業施策の一端を知ることもできる。今、五桂区では、地域に残る歴史資料を自分たちの手で調査や整理をして後世に伝えようという動きがある。更に様々な地域の歴史が掘り起こされ、今後に活用されることを期待する。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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