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工夫や努力で年々増加−明治期の伊勢芋生産


 写真 『物産陳列場出品解説書綴』表紙と「薯蕷栽培解説書」

写真 『物産陳列場出品解説書綴』表紙と「薯蕷栽培解説書」


 秋の味覚の一つにヤマノイモがある。『広辞苑』によれば、「山芋」とか「薯蕷」(普通「しょよ」と読み、「とろろ」とも読む)の字を当て、「ヤマノイモ科の多年生蔓草、日本各地の山野に自生」と続く。いわゆる「自然薯(ジネンジョ)」で、粘りや香りがあって古くから食用とされてきた。しかし、その成長は遅く、食用になるまで数年を要する。また、地下に深く伸びる薯を掘るには手間がかかり、最近では植林地や大きくなった雑木林が多く、自然薯そのものも少なくなった。そのため、一志町など、畑地にビニール管を使って1年で育つ自然薯を栽培し、地域の特産物として売り出しているところもある。
 自然薯は、主としてすりおろして「とろろ汁」で食べられ、同類のものにナガイモ(長芋)・イセイモ(伊勢芋)・ヤマトイモ(大和芋)・ツクネイモ(捏芋)などがある。これらは畑地に栽培され、風味は自然薯には及ばないものの、総じて「とろろ芋」と言われる。このうち、伊勢芋は、自然薯や長芋のように細長いものでなく、凹凸のある扁球形のジャガイモに似た芋で、多気郡内の国道42号沿いには伊勢芋を使った料理を売り物にした食堂が目立つ。そこで、今回は明治期の伊勢芋生産について、見てみようと思う。
 まず、明治初期の農産物などの状況を知る史料に、1873(明治6)年の『府県物産表』がある。これは大蔵省の指示により各府県が生産物を取り調べ上申したもので、旧三重県には項目もないが、度会県では「薯蕷」約13万貫(史料のママ)の生産が掲げられている。その生産の中心になったのは、多気郡と考えられ、1887年の『多気郡物産表』では4451貫、594円の「薯蕷」生産が記載されている。中でも、89年の村制施行で津田村(現多気町)となった地域がこの「薯蕷」の原産地と伝えられ、「津田芋」とも言われた。
 1881年、東京の上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会には、津田地区に近い五桂村(89年佐奈村となる。現多気町)の一人が「薯蕷」を出品した。その『出品解説書』が県庁に残されており、当時の栽培方法などがよくわかる。少し触れると、植え付けの時期は4月の中旬で、麦作の間に30p間隔で種芋を植える。大きな種芋は4等分し切り口を灰でまぶすというもので、ジャガイモの植え付け方法と同様である。発芽後は肥料を施し、畑地全面に刈り取った麦殻を敷いて、その上に蔓を這わせ、10月下旬に収穫するというものであった。その頃、五桂村では1か年で約400貫の生産高があり、代価は1貫13銭で、米価1貫12銭を上回っていた。
また、1885年には、津公園(偕楽公園)内に開設された三重県物産陳列場に、津田地区の井内林村の人が「薯蕷1貫目」を出品した。その『出品解説書綴』も県庁にあり、やはり、栽培方法が詳しく記されている。前述の五桂村の解説と似るが、「薯蕷ハ畑地ニ作ルヨリモ両毛作田ノ真土」が良いとし、連作を嫌うことも説明されている。
 こうした地域の人たちの栽培の工夫や努力によって、「薯蕷」の生産高があがった。しかし、その販売については、松阪の商人や問屋の手を経て「松阪芋」という商標で出荷されていたようで、1900年、これに疑問をもった津田村の人たちが県庁に相談し、「伊勢芋」として売り出すことにしたらしい。以後、「伊勢芋」の名で広まり、現在では『日本国語大辞典』に「伊勢芋」で項が立つほどになった。また、1901年〜1917(大正6)年の間はアメリカへの輸出もなされた。毎年約2000貫の輸出量も次第に増え、16年には1万貫にも達したが、18年にアメリカが東洋からの山芋輸入を停止し、国内に販路を求めることになったという(『多気町史』)。そして、今、食生活が多様化する中で自然食品、故郷の味、三重の特産品として、全国に「伊勢芋」の人気が高まっている。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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