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市場価値高い四日市万古−移行期に「志(で)野陶器」の存在


『明治六年調 地誌提要材料編』(三重県庁文書)

『明治六年調 地誌提要材料編』(三重県庁文書)


 三重郡朝日町では、今年になって万古焼の古窯跡がいくつか発見された。その保存をめぐって議論があるが、何とかこのまま後世に伝える保存処置をとって欲しいと願う。
 さて、万古焼については、既に本欄68号で森有節に関して記述したが、今回は「四日市万古」について紹介したい。
 四日市万古の創始者である山中忠左衛門は、1848(嘉永元)年3月、末永村(現四日市市川原町)で製陶を開始した。また、長島藩士で若い頃から陶芸の心得があった堀友直も、1873(明治6)年、東阿倉川村(現四日市市)に移転し窯を開いた。両村は海蔵川を挟み隣接している。  
 なぜ、この地に万古焼産業が栄えたのかについては、陶土と深く関係があり、垂坂山を中心に、この地域では良質な陶土が採集できたのである。
 73年に県がまとめた『明治六年調 地誌提要材料編』の中に鉱物産地を記したものがあり、白土の産出地は、阿倉川村庚申山、羽津山(現四日市市)、小向村天神山(現朝日町)、黄土は小向村天神山、「陶窯ヲ製スル土」は、阿倉川村一本松南ノ野と見える。また「水タレ土」という陶土も羽津村西ノ山、小向村で産したとある。確かに、小向村と羽津・阿倉川村地域は、良質な陶土の産出地であった。いずれも東海道が通り、交通の便が良く、市場となる町場からも近いなど、窯業が栄える条件がそろっていた。ちなみに、1881(明治14)年の第2回内国勧業博覧会に「万古焼」を出品した13名のうち10名が、素材に羽津村一本松や阿倉川村庚申山の赤・白土を使い、山中・堀のほか内田清十郎の3名が、羽津村産の「水タレ土」を用いていた。
 さらに興味深い点は、先の『地誌提要材料編』の製造物の項に「萬古陶器」と併記されて「志(で)野(シデノ)陶器」という名が見られることである。万古陶器は「朝明郡小向村等製」とあり、志(で)野陶器は三重郡四日市等製とある。『伊勢名勝志』によれば、志(で)野は朝明郡羽津村西部の地名であるという。志(で)野陶器が同村を拠点に製造されていたようである。小向村を中心に作られていたのが万古陶器で、四日市方面で作られたものは志(で)野陶器であるとわざわざ区別しており、注目される。「朝明郡羽津村製」とないのは、既に生産の拠点が四日市方面に移っていたからであろうが、いずれにしても、この時期「志(で)野陶器」と命名された焼き物があった。
 志(で)野陶器に関する史料は、ほかには確認していない。ただ、次のような羽津村や阿倉川村の窯業の歴史に関係する話があって、その経緯が推察できそうである。
 東阿倉川村では、山中忠左衛門より遡ること20年前の1829(文政12)年、唯福寺の住職・田端教正と信楽(現滋賀県)の陶工・上島庄助が信楽風の焼き物を作り始めたとされる。その後、教正と庄助の作風は、森有節の影響を受け、万古焼に傾斜していったという。そして、山中忠左衛門が、この田端教正に教えを受けたと伝えられている。
 さらに、上島庄助が慶応年間(1865〜68年)に廃業すると、庄助窯で働いていた陶工数名を引き取って羽津村で藤井元七が窯を開いた。この窯では桑名万古風の土瓶など雑器を製していたが、羽津の古い地名「志(で)野」にちなんで「ひでの」印を用いたと言われている。また、桑名藩が、1867(慶応3)年に領内の桑名万古陶業者を調査した際、羽津村に元七という職人がいたという史料もある。この元七は藤井元七と同一であったと考えられ、志(で)野陶器も結局は桑名万古に一括されていたらしい。
 以上のことを考え合わせると、陶土に恵まれた羽津や安倉川のあたりで有節万古や桑名万古風の陶器生産が行われ、一時はそれを「志(で)野陶器」と呼んでいた。しかし、「万古」を名乗った方が、市場価値が高かったのか、やがて「四日市万古」となり、それとともに、万古焼きの生産拠点も桑名から四日市に徐々に移行していったようである。
※タイトル、本文中の「(で)」は写真中の文字「氏の下に一」を表しています。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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