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「詐欺」と誤解、村あげて行動−「徴兵令」めぐる最初の事件


明治6年『徴兵令』(部分)

明治6年『徴兵令』(部分)


 県史の編さん事業を始め、既に20年が経つ。その間、新しい史実やこれまでとは違った解釈が必要な資料の発見など、数多くあった。「発見!三重の歴史」では、その一端を紹介し、今回で50回目を迎える。
 今日は、1873(明治6)年3月に度会県牟婁郡神内(こうのうち)村(現紀宝町)で起こった「徴兵令」をめぐる事件について、見てみよう。この事件は全国最初の「徴兵令反対一揆」として研究者の間で注目され、歴史辞典類にも必ず取り上げられている。ところが、資料や調査研究は少なく、当初から県史編さんの課題となっていた。
 まず、研究者たちの典拠資料は、1985年ごろに県がまとめ政府に提出した「三重県史料」である。それには、1873年3月12日「徴兵令ヲ誤解」した神内村の人々が竹槍を携えて集まり、「暴挙ノ勢」があったと記されている。徴兵令発布が1月10日で、3月に事件が発生したわけであるから、確かに初発であったかもしれない。
 この徴兵令は国民の兵役義務を定めた最初の法令で、前年の11月28日には「徴兵告諭」が出され、その一節に「之(これ)ヲ称シテ血税ト云フ、其生血ヲ以テ国ニ報スル」という表記があったため、本当に生血を採るという流言を生み、それが徴兵令反対の一揆にかりたてたと言われる。数万人が参加した同年5月の岡山県美作地域の一揆をはじめ、後続して起こった十数件の事件ではそうした流言が発端となったらしい。ちなみに、『日本国語大辞典』でも「血税=(明治五年公布の太政官告諭から出た語)兵役義務のたとえ、徴兵」というように、「血税」という言葉がこのとき新しく使われた。それが人々に衝撃を与え、新政府の政策に対する不満ともあいまって一揆に結び付いたのである。神内村の場合も「徴兵令ヲ誤解」と記され、やはり流言のような誤解があったと思われた。
 ただ、「三重県史料」では、どう誤解したのかは明記されていない。関係資料の調査を進めるうち、この事件で処罰された10人の取調記録(当時は度会県聴訟課取調べ)が法務省の図書館に保存されていることが判明した。これを見れば更に詳しい事件の様相がわかるので、人権尊重の誓約書を書き、その記録を閲覧させてもらった。しかしながら、10人すべての供述書に「血税」のことは一言も見られなかった。それでは、事件の要因は何か、簡単に言うと、徴兵令を頒布し募兵のため巡回していた度会県の係員を詐欺者と思い込み、それを取り押さえようと騒ぎになったらしい。10人がそう供述し、「竹槍ヲ携ヘ」動いた人数は「凡(およそ)二十人」であったともいう。
 すなわち、このときの徴兵令は免役条項が多く、官庁勤務者や一家の主人・嗣子のほか、「代人料二百七十円」を支払えば兵役が免除されたのである。結果として兵役負担は貧家の次男以下に集中したわけであるが、神内村の人たちの間では、270円は大金ではあるが、償金で免役になるのは「真ノ朝令」ではないのではないか、これは前年よりしばしば来て金銀を貪る詐欺者ではないかという疑惑が生じ、村をあげて行動を起こしたというのである。
 以上のように、法務省図書館の資料を閲覧して初めて事件の真相が明らかになった。これまで言われてきたこととは若干ニュアンスが違うが、新政府の強兵策第一歩は、現在の三重県域で最初の騒ぎを引き起こした。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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