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再編、合併めまぐるしく−明治初期からの行政区域変遷


明治19年三重県管内全図より

明治19年三重県管内全図より


 今、市町村合併の準備が着々となされている。三重県の現在の市町村数は69であるが、江戸時代には1800以上もの村が存在した。明治期以降、合併が繰り返された結果であり、特に明治初期はめまぐるしく変遷した。
 まず、明治5(1872)年、明治政府は「御一新」の一つとして、庄屋などの村役人を廃止し戸長・副戸長を置いた。また、慣れ親しんだ村の名も公式上排除し、複数の村をあわせて番号で示す大区小区制を採用した。今でいう市町村コードのようなものである。例えば、度会県では7大区に分けられ、一志郡川原木造村(かわらこつくりむら)や新屋庄村(にわのしょうむら、現嬉野町)は、周辺の10ヵ村と共に第4大区7小区と定められた(最近発見の資料では、直後に1小区に変更されている)。
 ただ、大区小区制には政府の細かい規定がなく、度会県では2年後の7年7月に大区小区制をやめて県全体を20区に区域改定した。第4大区1小区は、第12区となった。
 次に、9年4月18日三重県と度会県が合併したが、旧三重県の第1〜10大区と旧度会県の第1〜10区が重なり、混乱をきたした。11年3月、旧度会県の20区を廃止し、旧三重県に続く第11〜18聯(れん)区に再編制した。新屋庄村など、現嬉野町域の村々は第12聯区に含まれた。
 そんな矢先、政府は新制度に対する批判から11年7月には郡区町村編制法を公布し、人々になじみ深い郡名や町村名を公式に復活した。三重県では翌12年2月大区小区や聯区を廃止し、村々の組合せで事務を進めた。その後、17年9月には聯合戸長役場制度が整備された。新屋庄村には戸長役場が置かれ、ほかに川原木造村・権現前村・須賀村・川北村・小村・見永村の6ヵ村が属した。
 そして、22年4月1日には「明治の大合併」である市制・町村制が施行され、三重県域では1市18町317村が成立した。初めて市長や町村長が置かれ、一応の地方自治の体制ができた。新屋庄村外6ヵ村の区域では、6ヵ村が豊田村となり、財産の関係から見永村だけが中川村に入った。
 なお、この豊田・中川村は、それから年後の昭和30(1955)年3月15日、「昭和の大合併」で豊地・中原・中郷村と宇気郷村の一部があわされて嬉野町になる。
 明治22年に成立した豊田村や中川村などの村々は、「旧村」と言われ、現在でも自治会組織や小学校区などの区域として機能しているところが多い。成立から都合110年以上が経っており、今後もこの旧村の区域は何らかの形で地域社会に残っていくであろう。
 それに対し、現在の市町村はどうか。大半の市町村が形づくられた「昭和の大合併」からはまだ50年である。将来、この区域がどう意識され残っていくかは、新しく建設される自治体のあり方だけでなく、現市町村の50年間の歴史的評価が大きく左右するのかもしれない。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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