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庶民の衣服に「花井の紙」−埋もれた史実掘り起こし


挿図 花井の位置と『和漢三才図会』「紙衣」

挿図 花井の位置と『和漢三才図会』「紙衣」


 数年前になるが、東京からある女性が県史編さんグループを尋ねて来られた。その女性は日本ペンクラブの一員で、和紙文化研究会にも属されていて「花井(けい)の紙についての資料はないか」というのであった。
 「花井」と書いて「けい」と読むことは熊野方面の資料調査などで聞いており、三重県の南端、熊野川の支流・北山川沿いの地名(現熊野市紀和町)であることは知っていた。また、熊野川河口の紀宝町鵜殿には製紙工場があって、熊野川沿いでは製紙業が盛んであることもおぼろげながら分かっていたが、「花井の紙」が全国的にそんなに注目されるのかと多少驚いた。そして、江戸中期の百科辞典『和漢三才図会』の「紙衣(かみこ)」の項に「奥州白石、駿州ノ阿部川、紀伊ノ華井(ケイ)、摂州大坂、之ヲ出、華井ノ紙衣特ニ佳シ…」とあることを教えられ、更にビックリした。
 ちなみに、紙衣は紙子とも記されるが、紙で作った衣服のことで、上質の厚く漉いた和紙に渋柿を塗り、夜露にさらして揉み和らげ衣服に仕上げた。その歴史は古く、女性の手をわずらわさないで作れたので最初は僧侶たちが常用したらしいが、風を通さないことから武士たちの戦時の防寒着にもなり、江戸期には安価なこともあって一般庶民もこれを愛用したという。麻など目の粗い着物を着ていた当時では、風を通さない紙衣は庶民には欠かせない防寒着であり、また荏油(えのあぶら)を塗って紙合羽(がっぱ)なども作られた。
 こうした紙衣や紙ガッパの紙は、簡単に破れては困るので、薄い紙を2枚張り合わせて用いられたが、漉き方にも工夫があった。まず繊維を縦方向に漉き、次に横方向に漉く方法で、十文字にからめて漉くことから「十文字紙」とも言われた。
 花井に近い熊野市尾川区で保存されている大庄屋文書群の中に、江戸から「花井紙子三端」を送って欲しいという内容の書状がある。1700(元禄13)年頃の文書で、やはり江戸中期には花井の紙衣が人気であったことがうかがえる(『紀和町史』)が、それ以外には江戸期の花井の紙衣生産を知る史料は、残念ながら確認されていない。
 ただ、時代が下って、1881(明治14)年に東京の上野公園で開催された第2回内国勧業博覧会には、花井の人が「十文字紙」を出品しており、その関係資料が三重県庁に残されている。それには、原料や当時の製造法について詳しい記述がある。中でも、原料については、「花井村ニテ耕作シタル楮(こうぞ)皮」を用いている。古い時期には紙質の良い雁皮(がんぴ)を原料に用いていたと言われるが、雁皮は栽培が難しく天然のものしかなかった。そのため、雁皮が不足し楮を栽培したのかもしれない。また、「十文字紙」の用途についても、合羽が多かったが、「証文紙等ニ用ユレハ保存方甚タ宜シ」と記され、丈夫な紙であっただけに証文には適していたのは合点がいく。
 こうした製紙業も花井村を中心とした熊野川沿岸で盛んであったが、やがて大規模な洋紙製造などに押され、第2次世界大戦前にはことごとく廃業してしまったようである。
 江戸時代に重宝された紙衣(紙子)も、今では奥羽地方の白石(仙台)紙子のみが残っているだけで、最良と言われた「花井の紙衣」は、全く姿を消してしまっている。
 数年前に東京から来られた一人の女性によって、花井の紙のことを教えられ、県史編さんの上でも注目しなければならないことに気づいた。このようなことは、いくつかある。絶えず県史編さんグループへの質問などを真摯に受け止め、これまで気づかなかった三重県の歴史事象の掘り起こしに努め、それらを本欄でも紹介してきたところである。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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