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咸臨丸がやってきた−幕末の志摩国海岸測量


『御公儀様御測量組内諸入用割合控帳』(越賀区有文書)

『御公儀様御測量組内諸入用割合控帳』(越賀区有文書)


 以前、当欄NO.76で東紀州を通った伊能忠敬測量隊について触れたが、今回は幕末期に行われた幕府の測量のことを話してみたい。
 1853(嘉永6)年以降、異国船が頻繁に往来し、幕府との交易も行われるようになった。それに伴う海難事故も頻発に起こってきた。1861(文久元)年7月、「神奈川より長崎や箱館への海路は暗礁が多く、たびたび破船致し、難儀に及んでいるので、このたび英国より測量についての申し立てがあって、それを差し許した」と、幕府は英国船での測量を許可した。
 志摩市越賀区有文書には、そのときの様子を物語る記録が残されている。前記の幕府許可触を受けて、藩や地元では迎え入れの準備が開始された。鳥羽藩は村々に不審者の止宿禁止や出稼ぎ者調査等の触を出し、村ごとの業務を定めた。越賀村では、宿割がなされ、幕府役人の本陣を普門寺、鳥羽藩の本陣を宝珠院とし、宿所には妙祐菴・大蔵寺などの寺院や百姓宅が割り当てられた。
 同年8月、測量軍艦が伊豆国下田浦に繋留されていることが達せられたので、村々においては遠見番(とおみばん)を厳重に勤め、もし軍艦を見つけたならば鳥羽表へ注進するようにと指示した。そして、9月には英国軍艦に外国奉行・軍艦奉行・目付支配の者が乗り込んで測量を行い、絵図面等は出来次第お渡しになる。場所によっては上陸いたし測量もする。また、食糧品の積み込みもあるので、不都合のないようにすべき旨が触れられた。
 ところが、ここで問題が発生した。それは「神三郡(しんさんぐん=多気・度会・飯野郡)及び志摩国へは外国人を一切立ち入らせないように」との朝廷からの沙汰が前々からあり、測量と外国人上陸禁止をどのようにクリアーするかであった。外国人上陸について、鳥羽藩は、各村落への家来の派遣はもちろん、苗字帯刀の者や村役人が浜へ繰り出して外国人の上陸を差し止めるようにとの指示を繰り返し出した。朝廷・伊勢神宮のほか、津藩も英国船の海岸測量を強固に反対した。結局、翌62年正月に中止となり、それに代わって幕府が伊勢・志摩などの沿岸部を測量することにした。
 同年6月、幕府から「このたび軍艦組の者を差し遣わし、伊勢・志摩・尾張三ケ国海路測量いたし候筈」との触が出された。そして、12月、この測量に軍艦「咸臨丸」がやってきた。咸臨丸は1860(万延元)年に遣米使節の随行船に選ばれ、艦長勝海舟ら約90人が乗り込んで初めて太平洋横断した有名な軍艦で、その後、小笠原島開拓に用いられていたが、伊勢・志摩方面の測量にも携わったのである。
 越賀区に残る史料によると、測量役人は12月2日から20日まで浜嶋村、20日から25日まで御座村、25日から翌年正月4日まで鵜方村、そして、4日から2月5日まで越賀村に滞在し、約1か月間この付近を測量した。
 越賀村での詳しい様子を見てみると、宿泊所は宝珠院などで、到着した正月4日から早速、測量のための見分や?示杭打ち作業が開始されている。その作業は13日まで行われ、14日から17日までは測量がなされた。また、18日から2月1日まで次の測量地の見分や?示杭打ち、2月2、3日に測量をし、越賀村付近での作業は終了し、測量隊は片田村へと移動した。そのとき、「御滞留中障なく相済まし安心仕(つかまつ)り候」と記録しているが、越賀村の庄屋・肝煎などは随分気疲れであったと思われる。
 1か月あまりのうち、測量役人の病気や天候などの理由で10日間ほど休日があって、測量準備作業や測量が毎日行われたのではないものの、時間をかけた綿密な測量であった。海の「浅深」に主眼が置かれ、このときの成果が「日本最初の航海用海図」であると、『三重県史』絵図・地図編でも解説している。そういう意味では、この測量については新たな「発見」ではない。
 ただ、この測量に村々がどう対応したかは、越賀区有文書のような地域に残る史料から探すしかない。

(県史編さんグループ 藤谷彰)

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