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幕末混乱で需要高まる−桑名藩の硝石製造


「硝石製錬法」(文久3年)挿図 縁の下の土を掘っている様子

「硝石製錬法」(文久3年)挿図 縁の下の土を掘っている様子


 高校で日本史を教えていたとき、授業でアンケートをとると、「新撰組」や「坂本龍馬」などに興味を持っているとの回答がよく目についた。彼らに限らず幕末の動乱に興味を感じる人も多いであろう。そこで、今回は少し変わった観点から三重県の幕末を見てみたい。
 開国以降、国内では尊王攘夷・公武合体・討幕と政局が目まぐるしく変わり、日本は対外的にも国内的にも軍備増強を行うことが急務となった。そうした中で、ある鉱物の需要が急激に高まった。それが硝石である。硝石とは硝酸カリウムで、乾燥地帯の地表や洞穴の床に薄く結晶し、火薬の原料となる。雨が多く湿度が高い日本では自然界で産出しない。そのため、雨が当たらない古い家屋の床下の土(窒素を多く含んでいる)を水に溶かし、これに灰汁を加えて化学変化を起こし、その上澄み液を煮詰めて作り出す。火薬の原料になるとあって、幕府や諸藩はほぼ同じ頃硝石製造に力を入れた。
 三重県域でも、おそらく多くの藩や天領で製造が行われたであろうが、あまり知られていない。史料から桑名藩の硝石製造の一端がわかるので、その様子を紹介する。
 桑名藩は、幕末、江戸州崎警備や京都警備を命じられ、特に京都所司代として京都の治安維持の任に当たるうち、蛤御門の変や戊辰戦争といった幕末維新の動乱に巻き込まれていった。その中で桑名藩も藩内の軍備拡張を推進し、硝石の量産化も文久年間から計画された。
 まず、文久2年(1862)9月、硝石製造に適した土を探すため各村の家屋下の土を調べた。翌年3月、3名の者を「硝石方掛」に命じ、本格的な硝石製造に向けて体制を固めた。元治年間(1864〜65)の史料には「硝石方役所」「小向村出役 硝石方」という表記も見られる。これに伴い、工程上必要な木灰の領外持ち出しを禁じ、領内産木灰の買い取りを開始した。
 硝石の製造場所(硝石焚場)は複数あったと思われるが、判明したのは桑名伝馬町の願証寺跡と小向(おぶけ)村(現朝日町)内のいずこかである。このうち、願証寺は既に文化年間(1804〜1818)に「境内の石ずえのみ残りて草茫々として参る人もなし…」といった廃墟の状態で、境内の広さが約1万1千坪もあって、相当大きな硝石製造工房が設けられたのではないかと推測できる。
 そして、いよいよ内乱の緊張感が高まる慶応2年には、更に製造規模を拡大し、御城や家臣の屋敷の土までも徴収の対象となった。また、灰類も木灰だけでなく、藁灰(わらばい)なども領外持出しの規制をかけた。こうした規制強化に対し、農民たちは肥料として灰が不足するので解除を求めたが、藩は肥料の確保に一部便宜を図っただけで取締を緩めることはなかった。
 ただ、慶応3年の藩職制にも「硝石方」が確認できるものの、どの程度の硝石が作られたのかは不明であり、明治維新期の混乱が過ぎると、硝石生産も減っていったものと思われる。
 幕末期の歴史、新撰組や坂本龍馬もいいが、身近な町や村の幕末を探るのも面白いものである。

(県史編さんグループ 石原佳樹)

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