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津藩主ら多くの人物撮影−日本写真史に残る 堀江鍬次郎


新四天王寺境内に建つ堀江鍬

新四天王寺境内に建つ堀江鍬


 毎年6月1日、津市・四天王寺境内墓地の一角では、三重県カメラ商組合の人々が集まり、一人の津藩士に対する法要が営まれる。この日は日本で初めて写真が撮影されたとされる「写真の日」で、法要はもう50年以上続けられている。今回紹介する堀江鍬(くわ)次郎(じろう)は、その墓の主であり、日本写真史上の重要人物である。
 鍬次郎は通称で、実名は忠雍。1831(天保2)年、津藩士堀江忠一の次男として、江戸染井の藩邸に生まれた。 1855(安政2)年、幕臣下曽根金三郎に西洋砲術を学び、57(安政4)年には長崎に赴いている。
 当時長崎では、幕府が近代海軍設立のため、オランダ政府から寄贈された蒸気船スンビン(後の観光丸)を教材として、その運用や軍事訓練を幕臣に伝習させた。長崎海軍伝習所と呼ばれる教育機関である。種々の理由によって四年足らずで廃止されるものの、優秀な人材を多数輩出し、海軍をはじめわが国の発展に寄与した点は非常に大きい。教官は、オランダ海軍士官ペルス・ライケン以下士官・機関士・水夫・火夫ら21名が当たり、航海術・造船学・測量・機関学・砲術・操兵・軍楽等を教授した。
 幕府は、諸藩に対しても海軍伝習参加を許可しており、津藩からも12名の参加があった。四天王寺の墓碑銘によると、鍬次郎はここで「騎兵砲隊築城諸頂」を学んだとあり、さらに「旁習舎(せい)密(み)術」とある。舎密とは化学の旧称で、医官ポンペから教えを受けた。
 ポンペは、当初海軍伝習の一環として医学を教授したが、伝習中止後も長崎に留まって近代医学教育を行った。彼の近代的かつ系統的な医学教育は有名で、多くの生徒が集まったが、その中にわが国写真研究の開祖、上野彦馬がいた。
 二人は化学を通じて知り合ったものと思われ、やがて写真の研究に取り組んでいく。当時は薬品製造から始めねばならず、硫酸や青酸カリ、アンモニア等の製造に大変な苦心を重ねている。青酸カリやアンモニアは牛の血や骨が原料で、その使用による悪臭のため奉行所に訴えられたこともあったという。
 1859(安政6)年、フランス人写真家ロシエが来日し、長崎に滞在して撮影を行った。二人はロシエに最新の写真技術を学ぶと同時に、彼の所有していた写真機の優秀さに驚いた。そこで、鍬次郎は藩主藤堂高猷(たかゆき)に願い出て新しい写真機と薬品を購入する。
翌1860(万延元)年、長崎留学を終えた堀江鍬次郎は、上野彦馬と共に購入した写真機を携えて江戸に向かう。そして、津藩邸において藩主をはじめ数多くの人物を撮影したという。さらに、その翌年、二人は高猷の帰国に随って津に移り、鍬次郎は藩校有造館洋学館で蘭学と舎密を教授し、彦馬も舎密を教えた。やがて、彦馬は津藩主の命によって化学解説書『舎密局必携』三巻を鍬次郎と共同で著した。この中には、「撮形術ポトガラヒー」の項目が含まれている。その後、彦馬は長崎に帰り、本格的な写真業を始めることになる。
 鍬次郎は蘭学師教頭のほか、1863(文久3)年の天誅組の乱に際して出兵するなどしているが、1866(慶応2)年に36歳で病没した。ちなみに、この年、当欄39で紹介した北海道開拓写真で有名な田本研造(現熊野市神川町出身)が、写真師として活動を始めている。
 現在、彼が撮影したと伝えられる上野彦馬の写真が一枚伝わっているが、あるいはこれ以外にも残された写真があるかもしれない。その「発見」に期待したいと思う。

(県史編さんグループ 瀧川 和也)

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