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武士にもあった給与カット−財政悪化の藩が召し上げるも…一時しのぎ


天保3年の長谷場村『壬辰歳御年貢米手札控帳』(永谷武久氏所蔵)

天保3年の長谷場村『壬辰歳御年貢米手札控帳』(永谷武久氏所蔵)


 現在、不況に伴う人員削減や給与・賞与等カットの話があちらこちらで聞かれる。給与生活者にとっては死活問題で、早い景気回復や社会情勢の好転が望まれるところであるが、実は、これとよく似た給与カットの話が江戸時代の武士世界にもあった。
 この武士給与の方式には、大きく分けて二種類ある。一つは藩主から知行所としての村落を宛行(あてが)われ、そこから収入を得るという地方知行(じかたちぎょう)の形で、もう一つは藩庫から俸禄(ほうろく)として蔵米(くらまい)を与えられる蔵米知行である。ここでは、地方知行制をとっていた津藩士の給与実態を紹介したい。
 慶長13 (1608)年、藤堂高虎が伊予国今治から伊勢・伊賀国へ入封し津藩が成立したが、家臣団には支配する村落と知行高を書き記した「知行目録」が与えられた。これによってその村からの年貢徴収の権限を付与され、この制度は江戸時代を通して継続されていく。ちなみに、高虎の時代は「四つ物成(ものなり)」といって、村高の40%を武士の俸禄として村から受け取る権限を有していたが、その給与率は時代や与えられた村によって異なっていた。
 時代も下がって天保3(1832)年、伊勢国長谷場(はせば)村(現津市)は坂井帯刀(たてわき)と坂井久蔵の2人に宛行われていた。村高375石で、当時の給与率は村高の33・24%とされ、それに付加米(現在の消費税のようなもの)を合わせて131石7合が2人の俸禄であった。それを割り振ると、帯刀87石3斗3升8合、久蔵43石6斗6升9合となり、それぞれ村から納入されることになっていた。ところが、この時期、津藩の財政が悪化しており、藩は藩士に対して俸禄の一部を「分掛(ぶがかり)」と称して徴収していたのである。帯刀らも「分掛米」を藩庫へ納めた。そのため、実際には帯刀は52石4斗3合、久蔵は26石2斗2合の合計78石6斗5合で、本給の60%しか受け取ることができなかった。
 また、安政6(1859)年の伊賀国上林(うえばやし)村(現上野市)は村高374石余で、藤堂新七郎の知行地であった。村へ掛かる年貢33%と付加税の合計135石7升5合が本来給人である新七郎のもとに納入されるはずであった。しかし、実際に新七郎のもとへ納入されたのは28石8斗と、本給のわずか21%で、その残りは「分掛米」などの名目で藩庫へ納入されたのである。
 特に江戸時代の後期にもなると、藩の借用金が累積していたので、それを解消するために商人から借金をしたり、百姓には年貢の先納させたりしていた。また、家臣に対しては俸禄をカットし、その分を借金返済に補填するという政策をとっていたため、このような事態となったのあろうが、これらは見通しのない一時の間に合わせ策でしかなかった。すなわち、幕藩体制崩壊後の明治9(1876)年になっても「旧藩負債取調帳」などの文書が県庁文書に多く見られ、武士の給与カットが抜本的な藩財政を立て直す解決策にならなかったことを物語っている。
 今年もあとわずか、「給与カット」という不景気な話で終わってしまうが、来年こそは景気回復など明るい年になることを期待したい。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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