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好物やもてなしぶりも−伊能忠敬測量隊の記録


測量御用留帳』表紙(紀和町西家文書)

測量御用留帳』表紙(紀和町西家文書)


 伊能忠敬は、江戸時代に精巧な日本地図を作製したことで有名である。数年前には、三重県でもその偉業を検証しようということで、シンポジュームや「伊能ウオーク」などさまざまなイベントが行われた。
 最近、県史編さん事業の一環として、伊能忠敬測量隊が伊勢・志摩・紀伊国や西国を測量した1805(文化2)年の第5次測量の記録を翻刻している。それは、尾鷲や熊野地域に残された『御用留』で、その中から部分的ではあるが、忠敬の人物像、測量隊の実態、地域でのもてなしなどの様相が見えてくる。
 忠敬の測量は、忠敬56歳の1800(寛政12)年の蝦夷地測量から、72歳の1816年江戸府内測量までの17年間、都合10回にも及ぶ。その測量は、当初幕府の補助を受ける形であったが、測量を重ねるに従い、その実績が認められて1805年の第5次測量からは幕府直轄の測量隊となったのである。そのため、第5次測量以降とそれ以前とでは地域での扱いに大きな差が見られる。
 今、北陸地域を測量した第4次測量での忠敬を見てみると、「勘解由(忠敬)は百姓体浪人者にて、いまだ幕府へ召し出されていない軽キ者」(「加賀藩史料」)とあり、甚だ低く見られていたようである。ところが、第5次以降の測量には、幕府から「測量御用のため指し遣わすので、無賃の人馬を宿々村々において滞りなく指し出すように」との触れが測量地となる地域へ事前に出され、幕府直轄の測量隊であることを知らせるともに、便宜を図るように指示されている。
 第5次測量は、東海道から志摩半島、紀伊半島、琵琶湖岸、山陽道、山陰道、再び東海道を通って江戸に戻る約7000キロにも及ぶコースであった。三重県域の通行は、往路が1805年4月9日の桑名宿から7月1日の木本浦まで、復路は翌年10月24日の関宿から28日の桑名宿までである。特に『御用留』は往路の測量隊通行にあたり作成されたもので、尾鷲・熊野地域通行は6月19日からである。忠敬自身が記した『測量日記』によると、測量隊の一日は、毎日六つ半頃(午前7時)出立、八つ(午後2時)頃終了で、夜には天体観測を行っている。
 以前、当欄で幕府巡見使通行の迎接の様子を記したが(25)、『御用留』の内容はかなり類似するところがある。すなわち、地域では大庄屋や帳書(大庄屋の補佐役)などが中心となって情報収集し、それを書き留めて綿密な準備を進めた。接待の方法も巡見使通行と共通する部分は多いが、測量隊の通行では地域で測量や荷物人足等が多数駆り出されている。測量隊の総勢は14人で宿は1軒、無理な場合は寺などを宿泊所とすることもあった。食事は一汁一菜、測量器具の取扱い、測量のための10坪ほど空き地を用意することなどが各村々へ伝達された。
 また、『御用留』には、忠敬の嗜好に関係する記事も見られる。例えば、忠敬は「めしは黒キ方御きらひ」と白米を好み、五ケ所浦では「機嫌が悪く、膳の菜には手をつけず、飯ばかり食し、自分の荷物から鰹節を取り出し菜にした」ことも記されている。
 また、尾鷲大庄屋記録の中には測量隊通行にあたって作成された「入用帳」が残されており、そこからは地域の負担を確認することもできる。
 このように、地域では測量隊を万全の体制で迎接することに心掛けたが、「とかく丁寧にし、御用向きを早く片付けるようにすることが上策」と、本音も見られる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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