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幕府の役人迎え地域緊張−失敗回避の秘策「巡見扇」


巡見扇(米倉タカ子氏所蔵)

巡見扇(米倉タカ子氏所蔵)


 鈴鹿山脈の麓を南北に走る国道306号線は、通称「巡見街道」と言われている。それは、江戸時代に幕府から地方へ派遣される諸国巡見使がこの道を通ったことからその名が付けられたようである。巡見使とは将軍の代替わりに地方の監察ために派遣される幕府の役人のことである。
 巡見使の始まりは、3代将軍家光時代の寛永10(1633)年からだと言われ、以後将軍が替わるごとに派遣され、天保8(1837)年の12代将軍家慶の代まで合計9回の巡見があった(なお、7代将軍家継のときは、将軍の在任期間が短く、幼少であったことから巡見使が派遣されなかった)。
 この巡見使の派遣は、全国を8ブロックに分けて行われた。1ブロックは使番(つかいばん)・書院番・小姓組役の幕府中堅役人の3人を中心として、彼らに随行する供まわりなどを含めると総勢100人前後となった。その一行が各地を見回ったのであり、地域では様々な対応を迫られた。
 11代将軍家斉の時期、天明8(1788)年7月〜8月に尾鷲地域を監察したときの巡見使は、使番松平惣兵衛、小姓組中根半兵衛、書院番山中伝十郎の三人一組で、尾鷲を通行したのは7月28日であった。使番松平惣兵衛の場合は、紀州藩の役人や大庄屋に付き添われて木本(現熊野市)から八鬼山境にやってきた。尾鷲組北浦庄屋の伊右衛門が出迎えた。そこでは八鬼山から九木浦や尾鷲の人足継場までの距離を尋ねられだけで終わったが、他の地域では年貢率、お救い米、御用金の有無など藩政全般に関する問いがあったようである。その後、巡見使一行は、長島浦・荷坂峠を越え、伊勢国大内山へと抜けている。
 また、巡見使を迎える地域では、巡見使の派遣が決まると藩の指示に基づいて、大庄屋が巡見使の動向を各村落に知らせ、村々に周到な準備をするよう指示した。尾鷲地域では、巡見使到来予定の3カ月前から準備が始まった。同時に、地域では藩の指示のもとに「想定問答集」を作った。その内容は、村が独自に作成するのではなく、藩の意向が入っていた。庄屋などの村役人が巡見使に村の実状をそのまま述べられたのでは藩政の問題点などが幕府に伝わる恐れがあり、藩の指示どおりに回答するようにさせていたのである。村役人も自身が間違って回答しないように、言わばカンニング・メモとして扇子に要旨を書き付けたものを用意したりした。実際に利用されたかは不明であるが、「巡見扇」と呼ばれる扇子が大内山村の旧家に残されている。それには昼休場所までの距離、野後村(現大宮町)までの距離、宮川までの距離、村高・新田高・村の人数・牛馬数が扇子いっぱいに書き記されている。この扇子を見ながら尋問に受け答えする村役人の姿を想像すると、巡見使の前でかなり緊張していたであろうし、巡見使への対応の大変さがうかがえるところである。
 やがて巡見使の制度は儀礼化の問題もあり、廃止されるが、一方で巡見使の通行は地域にとって多大な費用や人足の駆り出しなど大変な労力となったものの、宿の修繕や道・橋の工事など、今日的に言えば社会基盤の整備が行われ、地域へのメリットもあったのである。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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