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揺れる藩内赤裸々に−桑名の百姓一揆 藩士が手記


桑名藩士・加藤包教の手記「梱外不出」

桑名藩士・加藤包教の手記「梱外不出」


 県史編さんにおいて、まず史料や情報を収集することが重要である。関係史料があれば、県内に限らず、全国各地に史料調査に出向く。
 今回紹介する史料は、群馬県館林市の個人が所蔵される桑名藩士の手記である。藩主の移封に伴って桑名を離れ、史料も関東に移った。数年前に所蔵者を訪ね、その史料を撮影させてもらったが、最近、館林市に近い大泉町の「古文書の会」が活字翻刻され、参考にと送本いただいた。
 さて、その手記はというと、「梱外不出」と題された、1835(天保6)年に加藤太郎右衛門包教(かねのり)が書き記したものである。この手記の作者加藤包教は、1762(宝暦12)年生まれ、1841(天保12)年、八十歳まで生きた。この間、自分や藩に起こった出来事を思い出し、日記風に書状類を織り交ぜながら面々と手記を書き綴っている。特に包教が一時家老職にあったことで、その手記からは桑名藩の中枢の考えや政策が読み取れる。
 そこで、今回は、1782(天明2)年に桑名藩領内で起こった百姓一揆に関係して、藩がどのように対応しようとしていたのかを見てみよう。
 一揆の発端は、前年の藩主代替わりの際、藩側が農政の方針転換、郷目付(ごうめつけ)・地方目付(じかためつけ)の配置、地押し検地などを目論んだことであった。手始めに、小嶋村(現菰野町)の検地が行われるが、農民の評判はすこぶる悪かった。そのため、藩は検地を中止し、その代わりに年貢率を引き上げて収納高を増すことにした。また、江戸での諸入用などがかさみ、財政難になっていたので、藩では村々へ御用金を課そうとした。
 当時の郡奉行の一人、水野与一兵衛は、昨年の検地の一件やたびたびの賦課などから、もうこれ以上、村々に御用金を課すのはやめたほうがよいとの進言をした。しかし、藩はこれを聞くどころか、水野は「不敬、不埒(ふらち)」であるとして役儀を取り上げ、知行高を減らし、「蟄居」(謹慎)を申し付けた。
 水野がいなくなったので、藩はさっそく御用金を村々に課した。すると、やはり水野の予想したとおり、在中が騒々しくなり、12月18・19日頃には大勢が徒党を組み、郷目付・地方目付の居宅を打ち壊した。百姓一揆の勃発である。桑名城下へも押し寄せるという風聞もあった。
 このような状況に対し、藩では年寄たちが取り鎮め役であったが、狼狽するばかりで、その手段がなかった。そうした中で、加藤包教が代表者となり、年寄へ対面し、「御用人二人が町や村々へ出向き百姓たちの願い筋を聞き取ってはどうか」と進言した。年寄たちは、その意見に不服であったが、「お家の為」ということで渋々受け入れた。そして、用人が町や村々へ派遣され申し諭したことで、ようやく24日、25日になっておさまったのである。
 翌年には、一揆の責任を負って年寄ら数名が、格式取り上げ、知行減封などの処分を受けた。当の加藤包教自身も「遠慮」(自発的謹慎)や家格変更の処分を受けたが、これについて「聊以て覚これなく誠に無失の罪」で、「嘆ケ敷堪難」きことであると、その無念さを書き記している。
 この百姓一揆の様子については、『桑名市史』などにも取り上げられているが、このような藩内部のいきさつや藩士の気持ちまでは触れられてはいない。一揆の当時者の書いた手記などが発見されれば、さらに興味深いものとなるだろう。

(三重県史編さんグループ 藤谷 彰)

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