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秋田藩に貢献、家紋も許可−羽後鉱山開発した伊多波武助


秋田岩瀬村位置図と家紋(五三の桐)

秋田岩瀬村位置図と家紋(五三の桐)


 三重県史編さん室には、県の歴史に関する問合せが内外から多く寄せられる。中でも、県外からの問合せの中には、地元の三重県で存外知られておらず、逆にその内容について教わることがままある。『勢和村史』通史編の「近世期の勢和」中に、「伊多波武助(いたばぶすけ)と羽州鉱山」という一項目があるが、これなどはその典型的な例と言える。
 『勢和村史』によると、1985(昭和60)年9月、秋田県の阿仁町教育委員会から勢和村教育委員会に問合せがあり、江戸中期の明和年間、秋田で活躍した鉱山師伊多波武助の経歴や実家のことなどで、資料があれば教えてほしいとのことであった。勢和村ではもとよりそのような名前は初耳で、武助に関しては一切不明。返事を兼ねて逆にその業績などを問合せたという。調べてみると、それ以前にも松阪市在住の方が、秋田で伊多波武助のことを知り、足跡を明らかにして顕彰すべきとの手紙を勢和村長宛に出していたらしい。いずれにせよ、1996(平成8)年の『勢和村史』編さん開始に当たり、子孫の追跡等いろいろな角度から掘り起こし作業が進められた。その結果、地元からも新たな資料が発見され、秋田の伊多波関係者が来村するなどし、交流や情報交換が行われた。
 16世紀中ごろから17世紀前半にかけて、全国的に鉱山の開発が実施され、最盛期を迎える。伊多波氏は、出羽国秋田郡比内岩瀬村(現、秋田県北秋田郡田代町)で鉱山経営に従事し、もと高橋姓で松坂屋と称していた。岩瀬は有名な阿仁鉱山の北に当たり、付近には当時有数の鉱山が点在していた。伊多波氏の出身は、伊勢国多気郡波多瀬村(現多気郡勢和村)で、秋田藩佐竹氏の身分取立ての際に郷里の伊勢・多気・波多瀬にちなんだ「伊多波」姓を名乗るようになったという。
 『勢和村史』資料編に「伊多波氏系図」が紹介されているが、これは1805(文化2)年に秋田藩の記録方に提出されたものの写本である。

 系図に見える初代は、通称「武助」、実名は重行で、以後代々「重」の字を実名に用いている。重行は、1755(宝暦5)年に秋田藩主佐竹義明から「多年金銀御調達或ハ献納功労」によって家禄500石を永世与えられている。秋田藩領は、当時全国でも有数の鉱産地であり、前にも述べたが、彼は既に鉱山師として長年にわたって藩財政に貢献したことによって士分に取り立てられている。その後、隠居して岩瀬から秋田表に移り、「以来数十年来御用向相勤、銀穀莫大ニ献納、且銅鉛山御仕入年来戮力(りくりょく)、御国益ヲ取計」ったことにより、御紋附御羽織と御蔵出米100石を与えられた。家紋は五三の桐で、永世許可されたものであった。
 二代目長蔵は、実名を重克と言い、武助の名を世襲している。初代重行の甥に当たり、一志郡竹原村(現一志郡美杉村竹原)の出身である。養子として重行とともに秋田に移住している。1763年に家督を継ぎ、1769(明和6)年には、家禄500石を加増され1000石となっている。
 その後、系図は1871(明治4)年まで続くが、伊多波氏が鉱山師として藩に貢献し、藩も伊多波氏を重用していた様子がうかがわれる。
 重行・重克の秋田(岩瀬村)移住は、系図から元禄期以降と推定される。ただ、系図の冒頭部分には「吾祖……元禄年間有故テ」岩瀬村に移住したと記されており、彼ら以前に伊勢から関わりのある者が移ったと見るべきであろう。こうした移住の背景には、当然丹生水銀の採掘技術が考えられ、そういった技術者集団の動きや、採掘・精錬技術の伝播を考える上でもこのことはたいへん興味深い。

(県史編さんグループ 瀧川和也)

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