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松阪の綱差・牧野家、江戸へ−将軍・吉宗 鷹場制度を復活


牧戸甚内が移り住んだ西小松川村位置図

牧戸甚内が移り住んだ西小松川村位置図


 11月15日、狩猟が解禁となった。翌年2月15日までの猟期であるが、猟銃以外の狩猟方法として、罠(わな)や網のほかに「鷹狩り」も認められているらしい。訓練した鷹や隼(はやぶさ)を使って鶴や雁の獲物を捕らえさせる方法で、現在も日本放鷹協会や鷹匠協会などいくつもの団体があって、伝統的な狩猟法が調査・研究され、引き継がれている。と言っても「鷹狩り」を行う人はきわめて少ない。やはり、「鷹狩り」は、戦国時代の武将や江戸時代の将軍・大名が行った「お遊び」であった。しかし、その「お遊び」に多くの人が関わり、鷹場となった地域では様々な行為が制限されるなど、まさに将軍や有力大名にのみ許された権威の象徴であった。
 伊勢国一円が紀州藩主の鷹場であったことは有名で、藩祖徳川頼宣に対し「伊勢一国並諸道中一里通殺生其方可任意者也 仍而天気執達如件」という勅許が出されていた。伊勢国だけでなく、諸街道の一里以内の範囲でも鷹狩りが許された。頼宣公の伊勢国での鷹狩りは、先行研究では1660(万治3)年12月の参勤交代の際に一志郡内、翌61(寛文元)年9月の松坂付近の例があげられているが、詳しく調べれば更にその数は増えるかもしれない。いずれにしても、伊勢国は紀州藩主の鷹場となり、代々の藩主が伊勢で鷹狩りを行った。
 鷹狩りを行うためには、鷹をあやつる鷹匠のほか、鷹場となる現地にも鳥見役・綱差(つなさし)・鶴飼付役など、各種の役職者を配置していた。鳥見役は鷹場の確保で、家屋の増改築の検分をはじめとし道や橋の整備の指示、歌謡・御曲や普請の騒音規制、耕作時期の指示など、絶大なる権限をもって村々の生活のすべてを監督した。綱差は、鷹狩りの獲物となる鶴などの鳥類を手なずけたり、捕獲して飼育するといった任務をもっていた。また、鶴飼付役も同様、獲物の鶴などの飼付けで、餌となる鰌(どじょう)・鮒(ふな)や籾・麦などの確保に務めた。ちなみに、幕末期の伊勢国のこれらの役職者を見てみると、松坂御鳥見役14名・一志郡鳥見役10名・田丸鳥見役9名・白子鳥見役16名・川曲郡鳥見役9名が任命され、ほかに伊勢国全体で綱差并鶴飼付役24名がいた。
ところで、8代将軍徳川吉宗は、これら伊勢国の鷹場役人の1人を江戸に呼び寄せていたという事例がある。三重県内では意外に知られていないので、今回取り上げてみた。それは、松坂領内の海岸近くの飯野郡西野々村(現松阪市)にいた牧戸甚内で、牧戸家は祖父の代から3代にわたって綱差役を務めるという家柄であった。同家の「由緒書」によれば、紀州藩主から命じられて、たびたび綱罠で鶴を生け捕ったため「綱差」という役名を賜ったと伝えるが、牧戸家は紀州藩主の遊猟に大きく貢献していたのである。
 1716(享保元)年、吉宗が紀州藩主から将軍になると、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって一時休止していた鷹場制度を復活し、江戸周辺にいくつかの鷹場を設定した。それに伴って、かつて紀州藩主に貢献した松坂領の牧戸甚内を江戸に呼び寄せ、江戸周辺で鶴の生息状況の良い葛西領の西小松川村(現江戸川区)への常住を命じた。牧戸甚内は早速17年正月2日に移り住み、同年吉宗が鷹狩りを催した際、黒鶴1羽を初めて捕らえた。その褒美として、同行した吉宗の側近、加納遠江守の加納姓が甚内に与えられた。以後、加納甚内を名乗り、加納家は将軍家の鷹場が廃止される1867(慶応3)年までの150年間にわたって綱差役を世襲した。その間、鷹場役人としてだけでなく、幕府の方針に従って率先して西小松川村で新田開発にも取り組んだ。現在は荒川の川底となってしまったようだが、「綱差新田」と俗に言われたという。
 こうした加納(牧戸)家の「由緒書」や鷹狩りに関する様々な記録類は、今も加納家に保存されているらしい。江戸川区郷土資料館では、それらを「資料集」やブックレット『古文書にみる江戸時代の村のくらし 鷹狩り』などで紹介しており、伊勢から江戸に行った鷹場役人の活躍を知ることができる。

(県史編さんグループ 吉村利男)

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