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桑名藩で「在地代官」登用−農村支配固める巧妙な政策


「勤役記録」(菰野町辻昌夫家文書)

「勤役記録」(菰野町辻昌夫家文書)


 近年、江戸時代の身分に関して、従来の枠組みに当てはめることが難しい身分を「身分的周縁」として捉える研究が盛んとなってきている。その一つとして、「在地代官」があげられる。先行研究に従えば、在地代官とは庄屋あがりの代官のことで、江戸時代中期以降、旗本知行所や大名領の飛地(とびち)など小規模な所領で見られるという。
 ところが、「代官」と呼ばれる人物の履歴などを詳しく調べると、桑名藩でも江戸時代前期から在地代官が存在したことがわかった。桑名藩は決して小規模な所領でなく、注目される事例かもしれない。ここに紹介しよう。
 「勤役記録」によると、千草村(現菰野町)庄屋辻市郎左衛門は、1682(天和2)年に代官へ取り立てられた。それは桑名藩で家中人数削減が行われた翌年のことであった。東富田村(現四日市市)へ引越し、家屋敷を与えられた。桑名藩の分限帳には、その際に30俵3人扶持を宛行(あてが)われたとあり、その後1694(元禄7)年まで13年間代官を勤め、嫡男喜兵衛にその職を譲り、千草村へ帰っている。なお、市郎左衛門が代官に取り立てられた際の庄屋役は二男久右衛門が果たした。
 また、『四日市市史』史料編所収の「由緒書」によれば、中野村(現四日市市)の天春文右衛門も1741(寛保元)年に大庄屋から代官に召し抱えられて、員弁郡南筋30か村の支配を仰せ付けられ、9人扶持と桑名城下に屋敷を与えられた。そして、1770(明和7)年まで30年間代官を勤めた。その間、鍋坂新田や大仲新田の開発に携わり、在中御用掛・城普請御用掛などにも命じられ、勤務に精を出したということで、たびたび藩から褒美をもらっている。
 このように、桑名藩の代官は、江戸時代前期以降在地から取り立てられた。藩から苗字帯刀を許され、一定の禄や屋敷が支給され、家中の分限帳へ登録された。この時点で農民身分から武士身分への身分移行がなされたのである。
 ところで、代官とは、どのような職務を行っていたのであろうか。『四日市市史』に「村役人の年中行事等心得書」が掲載されているが、これは内容などからして天春家が代官の職を勤めるにあたって作成したものと考えられる。そこから主要な職務を抽出してみよう。正月は本人の家中への挨拶まわりと大庄屋・庄屋など村役人登城に伴う仲介。2月は村々よりの夫食(ふじき・農民の食料)願いの取次ぎ及び村々への割賦。3月は年貢米の中間算用の処理。5月には田植えの指示。6・7月には各村や代官仲間の宗門改。8月には年貢米納入の触出し及び検見廻村(けみかいそん)の申付け。そして、各村々の年貢納入高の郡奉行との相談・決定、年貢割付や納入についての指示など、様々な職務が記されている。残念ながら、この史料は10月中旬で終わっており、その後は不明であるが、いずれにしても、代官が藩役人と農民の中間にあって年貢米割付、納入など農政全般を担当し、村方支配の仲介役的な職務を担っていたことがわかる。
 以上のように、桑名藩においては、武士層と農民層との中間層として、農民身分である大庄屋や庄屋を武士身分である代官へと取り立てた。本来は被支配者層の者を支配者層に取り込むことによって、村方支配を円滑に推し進めていこうとしたのである。また、代官への取立ては身分の移行を伴ったが、当時の身分秩序を動かすものではなく、逆に農村部の支配を固める藩の巧妙な政策であった。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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