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久居藩の成立と津本藩−初代藩主からの文書


初代久居藩主・藤堂高通から家臣団にあてた文書(藤堂家所蔵)

初代久居藩主・藤堂高通から家臣団にあてた文書(藤堂家所蔵)


 江戸時代の前期、寛文9(1669)年9月29日に、津藩32万石余から5万石(うち伊勢国4万石、大和国1万石)が分けられ、久居藩が成立した。居城(陣屋)が置かれた一志郡野辺村の高台は、そのときから「永久に鎮居する」といった意味で久居と言うようになったという。
 初代久居藩主の藤堂高通(たかみち)は、津藩祖藤堂高虎の孫に当たり、兄高久は同じ9月29日に津藩の3代藩主となった。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば、「寛文九年九月二十九日封を襲、五万石を弟佐渡守高通に、三千石を正次郎高堅に分ち与ふ」とある。言わば、兄弟分与のような格好で久居藩が成立したのである。 津本藩も4代藩主のあと、高虎直系の血脈が途絶えると、久居藩から藩主を迎えるケースが多く、7人のうち5人が久居藩から入った。
 このように、久居藩は、参勤交代などは行っていたものの、あくまでも本藩の一部で、何かと本藩の意向が影響した。世継ぎの確定や家老の任命など本藩の指示があり、その意向に沿って藩政が運営されていた。
 ところで、数年前になるが、久居藩の成立に当たり初代藩主藤堂高通が家臣団に出した寛文9年閏10月の文書(法度)が発見された。久居藩の筆頭家老を務めた藤堂源助の御子孫の家に大切に保存されていた。それは、藤堂源助は高虎の甥で、2000石取りとして当時伊賀付けであったのを呼び寄せ、久居藩設置の中心的な役割を担わしたからである。なお、『公室年譜略(こうしつねんぷりゃく)』という津藩の初期史料によれば、このときの久居藩は、伊賀や津付けの藩士や江戸詰めの藩士など116人で構成されたが、その知行高などを見ると、藤堂源助の関係からか、伊賀付けの藩士に主力メンバーが多いように思う。
 発見された文書は「覚」という表題で、9条から成る。その内容は、藩主高通に付く侍のこと、あくまで本藩の法度を遵守すること、藤堂源助と箕浦少内とに相談して事を進めること、そして、すべての侍は3、4年のうちに引っ越すことなどである。さらに、久居城下の建設は萩森又兵衛を普請作事奉行に任命し、来年より工事を始めること、藩士の給料は支配する村落から直接に年貢徴収を行う地方知行取(じかたちぎょうとり)ではなく、藩庫から給料支給される蔵米知行取(くらまいちぎょうとり)へ変更することなどを通達している。
 この文書の発見によって、藩士の給料支払い方法など久居藩としての独自性が明らかになった。反面、「和泉殿(高久)法度」や「和泉殿え申上置候」という字句が多く見られ、本藩に対する配慮もうかがえる。やはり、久居藩は津藩の一部として成立した「内分(うちわけ)」の藩であったことを強く感じさせる。

(県史編さんグループ 藤谷 彰)

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