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伊賀衆 群を抜く強さ−忍者として 傭兵として


上野市丸之内の上野公園にある忍者屋敷

上野市丸之内の上野公園にある忍者屋敷


 「伊賀者」と言えば、直ぐさま忍者を想像される方も多いであろう。しかし、「伊賀者」すべてが忍者であった訳ではない。
 伊賀衆が最も活躍したであろう中世、特に戦国時代の史料によると、彼等は数百人を単位として、周辺の大名権力に合力する戦闘の専門集団、「傭兵」とも言うべき姿が見えてくるのである。伊賀国に隣接する、奈良興福寺の別院大乗院の門跡であった尋尊(じんそん)の日記から、まず見てみよう。
 1482(文明14)年10月、大和国の国人らの抗争に関わって、伊勢国司北畠政勝の舎弟坂内房郷が大将となり、長谷寺に出陣した。軍勢の数は七百人を称したが、実数は三百人程だったようで、しかもそのほとんどは伊賀衆であった。また、同17年10月14日の記事によると、山城国内にあった畠山義就方の城のうち、二ヶ所の城を「伊賀国人」が守備していたことも記されている。
 こうした記事は、他の史料でも確認することができるが、中には、いかにも「忍者」を彷彿とさせるような記事もある。
 例えば、『多聞院日記』1541(天文10)年11月26日の記事には、笠置城に忍び込んだ伊賀衆が、建物などに放火したことが見えており、「忍者」のイメージそのものと言える。さらに、次に紹介する『小槻時元記(おづきときもとき)』に見える記事は、「伊賀者」の卓越した戦闘力の高さを示すものでとして興味深いものがある。
 1502(文亀2)年2月14日、京愛宕山の山伏が中心となり、伊賀国内に攻め入った。原因は、百姓衆の緩怠を責めた伊賀国人衆に対し、百姓衆が愛宕山に助けを求めたことにあった。討ち入った愛宕勢は四百人余りとあることから、かなり本格的な攻撃であったと見られる。しかしその夜、伊賀国人衆が愛宕軍の陣に攻撃を仕掛け、一晩でそのほとんどを討ち取ってしまったのである。「一戦に及ばず、悉くこれを討ち取る」とあることから、戦闘は、まったく一方的な展開であったようである。よほどこの事件が印象に残ったのか、日記の記主も、「奇異之事也」と結んでいる。
 近世に成立した忍法書『萬川集海』の冒頭には、「陰忍ノ上手」として、「楯岡ノ道順」や「上野ノ左」「音羽ノ城戸」など、講談や小説、また、かつてブームを呼んだ忍法漫画などにも登場する、お馴染みの「忍者」名が記されている。ただし、彼等を実在の人物であったと即断するわけにはいかないことは言うまでもない。
 ただ、『享禄天文之記』によると、1561(永禄4)年閏3月、奈良の十市城を攻撃した伊賀衆を率いたのは「木猿」という者であったと記されている。そして、先の『萬川集海』中にも「下柘植ノ木猿」の名が見えているのである。両者を同一人物と見るか否かはひとまずおくとして、少なくとも当時、「木猿」という伊賀者に率いられた伊賀衆が城を攻撃したことは事実である。限りないロマンを感じないではいられない。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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