トップページ  > 発見!三重の歴史 > 朝熊山経塚出土の白銅鑑−亡き夫の往生願い副葬

朝熊山経塚出土の白銅鑑−亡き夫の往生願い副葬


朝熊山経塚出土の国宝「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」(『三重県文化財地図』より)

朝熊山経塚出土の国宝「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」(『三重県文化財地図』より)


 朝熊山は、現在の伊勢市の東南部、鳥羽市との市境にほど近いところに位置している。標高は555m。「朝熊ヶ岳」とも言い、現在、地図上ではこの名称となっているが、古今「朝熊山」の名で親しまれている。また、山頂付近にある金剛証寺は、参宮者の多くが参詣した名刹として知られている。その裏山の「経ヶ峰」と呼ばれる山頂部一帯には経塚群が広がっている。
 経塚とは主に、功徳を積むための作善行為として、教典を土中に埋納したものである。わが国で、平安時代の中頃から始まったとされている。埋納方法は一様ではないが、教典を入れた銅製などの容器(経筒)を陶製の外容器に入れ、さらに小石室に納めた例が多い。また、希に教典以外に鏡などの副葬品を伴う場合もある。
 朝熊山経塚は、明治時代に「承安三年」銘の経筒が出土したことで広く知られるようになった。その後、伊勢湾台風による倒木被害を契機に、1962(昭和37)年から始まった発掘調査によって43基もの経塚が確認され、最初に発見された承安3(1173)年の経筒とともに、出土品の一部は、本県では数少ない国宝に指定されている。中でも、阿弥陀如来の来迎図を鏡面上に毛彫りした白銅鏡は、極楽浄土への往生を願う、当時の阿弥陀信仰をよく示しており、同時に、工芸品としても、また、絵画資料としても優れた作品であると言える。
 これらの白銅鏡4面が副葬されていた経塚からは、1159(平治元)年8月15日付けて、比丘尼真妙が勧進したことを記した金銅製経筒が出土しており、中には計13巻もの紙本経が入っていた。
 銅製や陶製の経筒と違い、土中の紙が残ることは極めて希である。しかも、その中の1巻、観普賢経(かんふげんきょう)の奥書に「平治元年八月十四日雅彦尊霊、為出離生死往生極楽書写了」とあり、この教典が、「雅彦」の極楽往生を願って書写されたものであることがわかる。これまで、ほとんど言及されなかったが、「雅彦」とはどのような人物なのであろうか。このことについては、同じ経筒内に納められていた法華経の奥書に「度会氏」と見えることなどから、当時の外宮神官度会雅彦と見て間違いないであろう。
 禰宜の補任(ぶにん)記録によると、度会雅彦は、1135(保延元)年6月8日、37歳で外宮七禰宜に任じられ、1152年(仁平2)年には二禰宜に昇り、1159年8月15日、61歳で死去したとされている。経塚から出土した観普賢経の奥書日付の1日後である。恐らく、雅彦の死に臨み、その往生を願って観普賢経が書写されたのであろう。あるいは阿弥陀来迎の鏡は、この時、雅彦の枕元に置かれていたものかもしれない。現世後生の安穏を願った経塚がある一方、個人の極楽往生を願う経塚もあるのである。経筒に刻まれた勧進尼僧真妙は、恐らく雅彦の妻であり、豪華な副葬品に、亡き夫への思いが現れている。

(県史編さんグループ 小林 秀)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る