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全国有数の伊勢水銀−奈良の大仏鍍金にも貢献


丹生の水銀鉱山跡

丹生の水銀鉱山跡


 水銀の鉱石である辰砂(しんしゃ)は朱砂(しゅさ)とも言い、鮮やかな朱色を呈していることから、遙か昔の縄文時代から、顔料として使われてきた。
 その朱砂についての文献上の初見は『続日本紀』文武天皇2(698)年9月28日条で、伊勢国のほか、常陸・備前・伊予・日向国などからも献上されている。また、同じく『続日本紀』和銅6(713)年5月11日条には、水銀の献上のあったことが記されているが、それは伊勢国からのみもたらされたものであった。
 以降、水銀や朱砂は文献上、朱漆や朱墨の材料のほか、時には非常に高価な薬として用いられていたことが明らかとなる。また、仏像などの鍍金のためにも、多量の水銀が消費された。『東大寺要録』によると、大仏鍍金のための水銀は五万八千六百二十両。実に約2・2dもの量に及んでいる。これらの水銀には伊勢国以外からの分も含まれていたであろうが、他所からの産出記事は『続日本紀』文武天皇2年の記事以外になく、その大部分は、伊勢国飯高郡丹生郷、現在の三重県多気郡勢和村の丹生周辺から産出されたものであったと考えられている。
 中世に入ると、伊勢国丹生には全国でも唯一の「水銀座」が形成された。また水銀を扱う商人もいたようで、鈴鹿峠で盗賊に遭遇する水銀商人の話が平安時代末の説話集『今昔物語集』に収められている。
 ところで、「座」と言うのは、公家や大寺社等に帰属しながら専売などの特権を得ていた、商工業者による同業者組織とも言うべき集団のことである。水銀座の初見は建久6年(1195)、水銀座人藤井国遠が伊勢神宮領に乱入し、乱暴を働いた事件に関するものであるが、水銀座そのものの成立はもう少し早く、12世紀の中頃であったと考えられている。これは、多種多様な諸座の中でもかなり早い成立であり、取り扱う品目が水銀という特殊性からも注目されるが、残念ながら水銀座については史料を欠き、その詳細を明らかにできないのが現状である。
 その後、室町・戦国時代になると、水銀を原料とする白粉(おしろい)が盛んに生産され、伊勢水銀は新たな展開を見せる。「ハラヤ」や「軽粉(けいふん)」とも呼ばれた白粉は伊勢神宮の御師らによって、伊勢土産として全国的に頒布され、伊勢白粉として広く知られるようになった。そして、新たに白粉座も形成され、その権益に当時この地を領有していた北畠氏も食指を延ばし、一族の木造氏や岩内氏を白粉座の代官としている。
 しかし、そうした反面、伊勢水銀の産出量は、次第に減少していったともされている。昭和63(1988)年に調査された丹生の若宮遺跡は16世紀中頃の遺跡で、全国でも珍しい水銀精錬に関わる遺跡として注目されるが、この頃は既に、辰砂の産出量はピークを過ぎていたのかもしれない。

(県史編さんグループ 小林 秀)

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