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伊勢の土器、各地へ−明和周辺が一大生産地


出土土器の実測図 北野遺跡(左)と伏岩里2号墳

出土土器の実測図 北野遺跡(左)と伏岩里2号墳


 明和町から隣の玉城町にかけてのいわゆる「有爾郷(うにごう)」では斎宮で使った土師器を作る遺跡が多数確認されている。国史跡水池土器製作遺跡をはじめ、北野遺跡・戸峯遺跡群など20遺跡がある。また、土師器焼成坑という遺構の数では県内の9割以上が発見され、約450基を数える。このうち北野遺跡では225基が見つかっており、一つの遺跡での確認例としては全国で最大規模である。北野遺跡では6世紀の前半から土師器の生産が開始され、8世紀前半まで続けられている。当初は伊勢神宮にその製品が納められていたと考えられ、斎宮の成立以後、斎宮で使用される土師器も生産している。
 北野遺跡周辺で焼かれた土師器甕は、県内はもちろん、6世紀から7世紀終わり頃までは愛知県の尾張地域や岐阜県に製品として運ばれ、一般的に使われていることが使われている粘土の分析などから確認され、明和町周辺が古代の土器の一大生産地であったことがわかってきた。 
 さらに、この甕は東山道沿いの長野県佐久市や小諸市の遺跡でも見つかっている。佐久市では地元の土を使って伊勢産の甕の模倣品まで作っている。ただ、東山道をさらに東へ進み峠を越えることはなく、今のところ群馬県や埼玉県では発見されていない。
 関東地方へはどうも海を経由して運ばれたようで、千葉県の海沿いや川沿いの遺跡で伊勢産の土師器甕が出土している。ただ、製品として流通したというほどの量ではなく、こちらに来た人が何か物を入れて運ぶ道具として持ち帰ったのであろうか。最近では、神奈川県・東京都などでも確認されつつある。今まで、このような伊勢産の土師器甕は関東地方では注目をされていなかったが、注意して出土遺物が観察されだした成果である。10年ほど前までは、このような日常生活に一般的に使われる甕がこんなに広く分布しているなどとは思いもよらなかったことである。
 ところで、北野遺跡では変わった形の土器が見つかっている。「有孔広口筒形土器」と呼ぶ土師器で、読んで字のごとく、内彎気味に立ち上がる筒状の体部の上方を絞り、ラッパの口のように口縁部が大きく広がっている。そして、底部の中央には大きめの孔を外からあけている。実に変わった土師器で、北野遺跡以外では、斎宮跡でその破片かと思われるものが数点出ているだけである。
 ところが、全く同じと言っても過言ではない土器が韓国で出土している。特に国立扶餘博物館蔵のものは、その作り方の特徴といい形といい、瓜二つといってよいほど似ている。ほかには全羅南道羅州市伏岩里2号墳で埴輪として使われている土器がよく似ている。時期的には6世紀の初頭である。 日本では埼玉県中の山古墳で出土している須恵質埴輪壺がよく似た土器である。実際に「さきたま資料館」でその土器を見せていただいたが、その作り方の特徴は類似点が多い。6世紀末から7世紀初めの土器である。
 北野遺跡の例は7世紀末から8世紀初めであり、技術の系譜を考えるのには年代がかけ離れているが、実際の土器を見た限りでは何らかの関係が想定される。中の山古墳の土器を知る工人の子孫が作ったものであろうか。その解明が今後の課題である。

(県史編さんグループ 上村安生)

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