トップページ  > 発見!三重の歴史 > 90年ぶりに副葬品全容−錆山前方後方墳

90年ぶりに副葬品全容−錆山前方後方墳


錆山古墳測量図(一志町・嬉野町遺跡調査会『天花寺山』)

錆山古墳測量図(一志町・嬉野町遺跡調査会『天花寺山』)


 昭和60(1975)年、一志郡嬉野町豊地地区で錆山古墳が発見された。土取り工事に伴う確認調査で明らかになったのであるが、前方後方墳であり、随分話題となった。
 前方後方墳は、前方後円墳の後円部に当たる部分が方形をしているもので、全国的にも数が少ない。220例あまり確認されているだけで、前方後円墳の10分の1以下の数であるという。県内でも、前方後円墳約110基に対して、前方後方墳はわずか6基であり、そのうち4基が嬉野町内で発見されている。この錆山古墳をはじめ筒野(つつの)・西山・向山(むかいやま)古墳である。
 特に、同じ豊地地区に所在する筒野・向山古墳は、大正3年に鏡や石釧(いしくしろ)などの石製品が掘り出され、東京帝室博物館に提出された。その後、博物館の監査官であった後藤守一氏が「伊勢豊地村の二古式墳」として『考古学雑誌』に紹介し、全国にも知られるようになった。ただ、そのときは前方後方墳という認識はなかった。
 前方後方墳の存在が注目されるのは昭和30年ごろからで、三重県でも昭和38年に筒野古墳を三重大学原始古代史部会が測量して初めて前方後方墳が明確になった。また、同じ年、筒野古墳とは1km離れた豊田地区内からも前方後方墳がみつかった。西山古墳である。さらに、昭和41年に向山古墳の測量調査もなされ、やはり前方後方墳であることがわかった。このように、嬉野町内で次々と3基の前方後方墳が確認され、特徴的な古墳文化をもつ地域として、その歴史的背景についての議論も数々行われてきた。
 そして、錆山古墳の発見で更にもう1基の前方後方墳が追加された。錆山古墳は全長47m、主体部は棺を木炭で囲む、いわゆる木炭槨であることも判明した。幸い古墳は今も保存されているが、主体部は既にごっそり発掘されていて、墳形や木炭槨などから4世紀末に築造された古墳と考えられるものの、副装品については全くわからなかった。
 ところが、最近、嬉野町史編さん室で旧豊地村の村長を務められた家の資料群を見せていただき、その中から錆山古墳に関する記述のある小さなノートを発見した。それは「豊地村郷土史編纂資料覚」と内題のある大正初期のもので、当時豊地村では郷土史を編さんする計画であったらしい。各種の資料写とともに村内の古墳に関するメモが見られ、錆山古墳については「大正三年四月十三日発掘 十四日調ニ行」とあり、発掘の様子を略図に書き留めている。略図は楕円形の輪郭を書き、輪郭の中央には鏡2面、東側に剣3本、西側に槍1本を描いている。この楕円形の輪郭は昭和60年の調査で検出された発掘坑そのものであり、周囲は「墨」と記している。木炭槨のことである。調査のとき現地を見ていただけに、この記録の発見には非常に驚き、興奮した。やはり、錆山古墳にも鏡や剣が副葬されていたのである。これで副葬品の内容が明らかになり、副葬品からも古い時期の古墳であることが裏付けられた。
 前述したように、筒野・向山古墳も大正3年に発掘され、出土品は東京博物館に提出されて有名になった。しかし、錆山古墳の遺物は発掘から90年間全く知られることもなかった。どこに行ってしまったのか、実物の追跡は難しいにしても、この記録が地域の古墳時代研究に貴重な資料を提供したことには間違いない。

(県史編さんグループ 吉村利男)

トップページへ戻る このページの先頭へ戻る