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鉱工業産物

石灰(イシバイ)


三重県には石灰岩層が広く分布しています。そのため、古くから石灰が盛んに製造されていました。県庁には、江戸時代に河曲郡肥田村(現鈴鹿市)の農民が度会郡三津村(現伊勢市)から石灰を購入していたことがわかる資料が残っています。三津村は石灰石の産地でした。
明治時代になると、火薬を用いた石灰石の採掘が一般化し、石灰の製造量が飛躍的に伸びました。江戸時代の生産高はわかりませんが、明治六年(一八七三)の調査では、旧伊勢・伊賀両国でおよそ一一七万貫であった生産高が、二二年には、員弁郡で一四三万貫、阿拝郡で一七五万貫が製造されており、県全体で約六〇〇万貫となっていました。員弁郡では一〇戸に一戸が石灰の製造に携わっていました。

当時の石灰の用途は、主に水田の肥料でした。明治一〇年代に成立したと思われる『三重県内産物志稿 鉱物之部』には、「目下興業ノ稍々盛ナルハ特リ肥料石灰ヲ製スルト石炭ヲ堀採スルノ二鉱ニ過ス」と記されており、石灰肥料製造は、三重県の主要産業だったことがわかります。石灰の急激な増産の背景は、石灰がほかの購入肥料〈干鰯(ほしか)・搾滓(しめかす)など〉よりも価格が安く、また作物がよく育ち、害虫の駆除に効果があると考えられていたからです。加えて、当時は松方デフレ政策のもと、農家の生活が苦しくなってきていたので、石灰肥料を積極的に使用しました。
その一方で、石灰肥料の普及を警戒する動きも出てきました。長い年月、石灰肥料だけを多量に使用すると、田地の栄養分が減り、米の質が悪くなり、やがて何も実らなくなってしまうという知識が西洋から導入されてきたのです。そればかりか、水産界からの風当たりも強くなってきました。明治二四年に作成された『水産事項特別調査』によると、安濃川・雲出川・長田川で近年川魚の漁獲が減少した理由の一つは、「田面ニ石灰ヲ肥料トシテ施シ、其水ノ諸川ニ注入セルニ基因スル」としています。石灰肥料が河川の水質を汚染しているというのです。
このように明治一〇〜二〇年代は、石灰をめぐって三重県内で大きな問題となりました。

『鉱物類産地図』に描かれた柳村(現度会町)
『鉱物類産地図』に描かれた柳村(現度会町)
長坂村(現名張市)から石灰の出品
長坂村(現名張市)から石灰の出品

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